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嵐山渡月橋 嵐山の渡月橋。平安時代から風光明媚な名勝として愛されてきた。

京都の北西部に位置する嵐山は、京都では祇園界隈と並ぶ有数の観光地で、春と秋の観光シーズンには車の往来にも難儀するほど渋滞します。嵐山は大堰川に架かる渡月橋が有名ですが、橋の東側と西側では雰囲気が変わり、観光名勝は東側に偏り、西側は住宅地が目立ちます。小倉山を背景として、大堰川東岸から眺める渡月橋を愛でるのは、平安時代からあり、多くの貴族が別荘を構えていました。人々がこの地で遊興するのは、千年以上の歴史があります。

        嵐山の歴史

嵐山は京都を代表する観光地の一つで、特に渡月橋から見る西山は季節により表情を変え、見る者を飽きさせません。その景色の美しさは、古くから歌にも詠まれていて、多くの貴族もこの近くに別荘を構えていました。

嵐山中之島

嵐山の地名の由来は、そこに流れる大堰川と関係があり、その眺めの良さからこの地名が付けられました。「日本書紀」顕宗天皇三年に月神の託宣によって歌荒樔田を奉ったという、このウタアラスダがこの地名の起こりです。ウタは漢字で書くと、元は「宇田」と書き、「宇」は良い、という意味があり、「田」は昔は地面そのものを指していました。アラスはこの地域の名称である松尾の古名で、荒洲から来ているようです。大堰川には中州があり、アラスダはこれを指しています。松尾地区は古代朝鮮半島から渡来した秦氏が切り開いた土地で、秦氏は故郷の景色に似させてこの地域を切り開き、その時に中州を人工的に造った、と司馬遼太郎氏が著作の中で指摘しています。嵐山の名前は『荒樔田』にある山、が変化した名前なのです。

中之島公園の北広場。
ここでは時々イベントが催されたりしている。

嵐山を流れる川の名称は大堰川(少し下流になると桂川と呼ばれる)ですが、元は「大井川」と書きました。これは推古天皇の二十一年に、『聖徳太子が摂政し給ふとき田の用水に此川を切とはさしめ給ふ。其故に大井といふ。』との記述が歴史書にあります。この川を語るのに外せない歴史上の人物が二人います。一人目は先に挙げた朝鮮渡来氏族で、秦河勝を中心とした秦一族です。大堰川はもとは葛野川と呼ばれていて、葛野川を塞いで造った堤が葛野大堰と呼ばれ、秦氏が造営したとされています。これによって平安中期にはこの堰が葛野の大堰とよばれていたこと、この工事には秦氏一族を率いて行った、このような大工事は天下に比肩するものがないことが、記録されています。これによって嵐山周辺の灌漑施設が整い、土地が肥沃になって秦一族の富が数倍になりました。

嵐山 角倉了以

了以は京都の水運の発展に大きく寄与した。

歴史上の人物のもう一人は角倉了以です。了以は美作国(岡山県北部)の和計河で船運を見たことをヒントに、丹波から嵯峨まで舟を通すことを思いつきました。翌年に子の玄之を江戸幕府に遣わし、大堰川の船運を申請して許可されました。このころ幕府は二条城の造営に着手していたので、渡りに船、だったのかもしれません。了以は慶長11年(1606年)から大堰川の改修を始めます。水路にしたい場所にある大石を除くのに轆轤を用いて大石を動かしたり、鉄棒に縄をつないで引揚げてこれを投下し、石を砕いたりしました。また河の広くて浅いところは石を集めて狭め、水を深くし、滝あるころはその上を掘って水流をなだらかにしました。保津峡は急峻な地形と蛇行を繰返して12kmありますが、この工事を了以は五ケ月の超スピードで完成させています。大堰川を利用して物流をしていたのは、これよりも前からありました。京都に平安京を建設するのに、丹波から材木を運び込むのに大堰川を利用して、嵐山に集積しました。このときの運び込んだ材木の量はすざましく、丹波の山々が禿げ山になったほどです。その後丹波の樹相が変わってしまい、赤松が多く樹生するようになって丹波は松茸の産地になりました。しかし、大堰川を利用した水運はその急流さゆえ、非常に難しかったのですが、了以が開削してからの物流量は、飛躍的に伸びました。

  嵐山の散策
嵐山欄干

渡月橋の欄干の文字は流麗な文字が彫られている。

嵐山周辺の観光名所は、渡月橋より東側に集中しています。寺院では、天竜寺があり、少し足を伸ばすと大覚寺もあります。これは歴代天皇が渡月橋の左岸に別荘を建てて、渡月橋から嵐山に架けての風景を愛でたためです。渡月橋の名称も亀山天皇が、嵐峡の空を渡る月を眺めて、あたかも橋が天上の月を渡しているようだ、として橋に「渡月橋」の名前を与えました。渡月橋東岸には、芸能関係者が関わっているお店が多いのも特徴です。渡月橋西岸は、山が間近に迫っているので、大きな商業施設が建てられるスペースが少なく、道幅も狭い事からどちらかというと住宅地域になります。西岸にある中之島公園には料亭があり、また比較的広いスペースがあるので、イベントが行われたり、春にはお花見を楽しむ観光客で、一杯になります。春には桜、秋には紅葉が美しい嵐山ですが、嵐山には元々桜の木がなく、後嵯峨上皇が吉野山の桜を移植しさせました。明治10年までは嵐山は天龍寺の寺領で、京都所司代の管轄の基に、嵐山の桜を植樹したり管理をしたりしていました。天龍寺が管理することがなくなったので、嵐山は一時荒廃します。しかしそれを憂いた政治家や皇族が保勝会を作ったり、史跡の指定や風致地区になるなどを経て、景観が保たれるようになりました。また渡月橋の管理も天龍寺が行っていました。芸能の神様を祀る車折神社もこの近くです。

周恩来石碑

渡月橋から川沿いに北西方向に歩いていくと、亀山公園があります。ここは紅葉の時期になると、公園一帯が燃えるように紅く染まり、美しい風景が広がりますが、意外と観光客の姿が少なく、公園内の丘を登るだけで保津峡の景色を満喫することが出来ます。この公園内に大きな自然石の碑があります。これは中国の最高指導者の一人だった故、周恩来首相の詩を刻んだ石碑です。『雨中嵐山』と題する詩が刻まれていて、青年期だった周恩来が二度めに嵐山を訪れたとき詠んだものです。

石碑は結構な大きさがある。

この石碑には次の詩が刻まれています。

雨中二次遊嵐山,
両岸蒼松,挟着幾株櫻。
到尽処突見一山高,
流出泉水緑如許,繞石照人。
瀟瀟雨,霧濛濃;
一線陽光穿雲出,愈見嬌妍。
人間的万象真理,愈求愈模糊;
模糊中偶然見着一点光明,
 真愈覚嬌妍。

(註:文中の嬌の字は原文では女へんに交わる)

とあります。詩は下記のような内容です。

雨の中を二度嵐山に遊ぶ
両岸の青き松に、いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ
流れ出る泉は緑に映え、石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く
陽の光雲間より射して、いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は、求めるほどに模糊とするも
模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば
 真(まこと)にいよいよなまめかし

訳 蔡子民

最後の一節にある「摸糊としたなかにふと一点の光明を見出せば、これこそ本当にあでやかで美しい。」は、非常に含蓄深い言葉に思えます。

嵐山へのアクセス

JR嵐山駅より歩いてすぐ

嵯峨嵐山おもてなし帖のホームページ  : http://www.kyoto-arashiyama.com/

参考文献  : 司馬遼太郎著 : 街道をゆく(26)嵯峨散歩、仙台・石巻 : 朝日新聞社刊

京都地名研究会編 : 京都の地名検証―風土・歴史・文化をよむ : 勉誠出版刊

嵐山周辺の観光・宿泊

観光地: 龍安寺 仁和寺 大覚寺 広隆寺 天龍寺

宿泊施設: 嵯峨一休 ビジネスホテル嵐山 宿らんざん ホテル嵐亭
高雄もみぢ家本館

お食事処: 京味菜彩 嵐山 庵珠 創作会席 嵐山 谷口 KYOTO レストラン ル・プラ・プリュ