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大徳寺金毛閣

三門「金毛閣」は利休が2層の楼門に改築した。

臨済宗大徳寺派の大本山で、山号は龍宝山、本尊は釈迦如来、開基は大燈国師で、正中2年(1325年)に正式に創立されています。京都の有名寺院の中では珍しく観光地化されておらず、そのため三門も法堂も公開されていないので、近くに寄って見ることも困難ですが、それでも寺域内を散策したり拝観が許されている塔頭を見学すると強い印象を受けます。それは大徳寺が背負ってきた歴史や、禅宗という宗派がなせるものなのかもしれません。またここには一休宗純・千利休・豊臣秀吉など歴史上よく知られた人物が関わってきたのも、大きな特徴です。特に一休宗純は、開基の大燈国師と共に大徳寺の背骨を作ったとも言える人物で、大きな足跡を残しました。

 大徳寺の歴史

開基の大燈国師の名は宗峰妙超で、播州・竜野に生まれ、11歳で地元の天台宗の円教寺に入りますが、禅宗にめざめて鎌倉の建長寺に参入し、その後京の南浦紹明(大応国師)に参禅。甥のために紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされています。禅に深く傾倒していた花園天皇は上皇になってから大燈に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願寺とする院宣を発して、大燈を開山としました。後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しましたが、南北朝の動乱の後、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利幕府から疎んじられ、五山十刹から除かれてしまうことになり、それまでは「官」の寺であったのが、それからは「私」の寺になってしまい、公からの庇護を受けられなくなってしまいました。一時は私寺として再建された時期もありましが、それも応仁の乱で焼失しました。

大徳寺勅使門

勅使門は京都御所南東にあった陽明門を移築した。

寺が衰退しかねない状況の中で、それを救ったのはあの有名な一休宗純です。南北朝の動乱が終結したときの北朝の天皇は後小松天皇でしたが、一休宗純は後小松天皇の後落胤との説がありますが、本人も決して否定はせず、真相はわかりません。一休は応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したほどの人物ですが、仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行なったり、朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわったするなど、奇行が多かったのですが、それ故に庶民の人気が高く一休も子供たちとも親しく交わりました。それらの奇行は禅の精神を基に、当時の風習を批判したものでした。応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられましたが、一休自身は大徳寺に住まず、それまで住み続けていた酬恩庵にいながら、大徳寺の住持を兼ねていました。酬恩庵は現在の京都府京田辺市の薪地区にあにり、大変簡素な庵です。しかし一休が大徳寺の住持になると評判を呼び、大いに浄財が集まりました。

法堂は、一名演法堂ともいわれている。

大徳寺法堂一休に帰依していた人物は、能の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や茶道創始者の村田珠光などがいました。しかし一休自身は寺を再興するための無心をしたことが無く、それを行ったのは一休の兄弟子の養叟(ようそう)で、堺の商人のために禅道場を開いたりして、一休の名声を利用して寺を再興する資金を集めていましたが、一休自身はそれをとても嫌っていたようです。しかし皮肉にも、一休が住持になったことで大名や豪商が塔頭を寄進したことによって、現在の大徳寺があります。一休は大徳寺開基の大燈国師に心酔していて、国師が大悟したあと20年間も五条の河原で乞食の群れの中にいたことを深く心に刻んでいました。

大徳寺の表玄関。大寺なのに質素。

大徳寺表玄関大燈国師や一休の精神は今も受け継いでいて、観光地化された他の京都の寺院とは対照的に世俗化を拒み、20ヶ寺を超える塔頭の中で常時拝観可能な塔頭は龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4ヶ院で、他の塔頭は春や秋の特別公開の時に中にはいることができますが、しかしその時も全ての塔頭が公開されるわけではありません。修行をしている僧の中には「観光寺院の売僧(マイス)行為は是非とも止めて頂きたい。」と、激しい口調で非難される方もいるほどです。また大徳寺は「大徳寺の茶面」と言われるほど茶道との関わりが深いのですが、それは一休に帰依していた村田珠光が、それまで大名や堺の豪商が行っていた喫茶から侘びの部分だけを取り出し、そこに禅の精神を取り入れたことから始まります。

信長の菩提を弔うために秀吉が建てた総見院。

大徳寺総見院織田信長の茶頭を勤めていた千利休がのちに豊臣秀吉に仕え、それから大徳寺と深く関わるようになりました。秀吉は信長の菩提を弔うため総見院(信長の法名)をたて、追悼大茶会を執り行いました。それから名だたる大名は塔頭を寄進し、それに茶室が付いて利休が深く関わっていきます。天正17年(1589年)に利休が三門の改装を指揮をして上層を完成させた際、利休は上層に自身の草鞋履きの木像を安置した(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)が、これが秀吉の怒りを買い、利休に切腹を命じたのは有名な話です(但し異説もあり)。

大徳寺高桐院また江戸時代には、紫衣事件と呼ばれる騒動がありました。これは1613年(慶長18年)に幕府が、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じました。これに対し朝廷はこれまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、大徳寺の沢庵宗彭や玉室宗珀、江月宗玩などが幕府に対して抗弁書を提出したために、幕命に反したとして流罪に処せられました。これを紫衣事件と呼びます。その後幕府と和解をして今日の隆盛を保つことが出来ました。

高桐院の入り口。庭が美しい。

  大徳寺の散策

これは高桐院の書院から庭を眺めた写真。一幅の絵画のよう。

大徳寺高桐院大徳寺は北大路通りに南門があり、そこから少し歩くと勅使門があります。前後軒唐破風付き四脚門で、寛永17年(1640年)、京都御所南東にあった陽明門を、後水尾天皇から下賜されました。勅使門は天皇及びその使者(勅使)がその寺を訪れるときだけ開かれる門で、この門が開かれることは滅多にありません。勅使門の直ぐ北には三門があります。朱塗りの重層入母屋造・5間3戸の唐様建築で、亨禄2年(1529年)に連歌師宗長らが建てたときには単層の門でしたが、天正17年(1589年)に利休が2層の楼門に改築しました。大徳寺の三門は別名「金毛閣」と言います。この「金毛」とは金毛の獅子のことで、すぐれた禅僧の姿を言います。「この門をくぐる者は、金毛の獅子となって、下化衆生すべし」というような意味が込められています。大徳寺の三門は他の禅宗寺院の三門に比べて大きいわけではありませんが、大徳寺全体がわびを感じさせるのに対して、三門は丹塗りであることもあり、またその改築を指導したのが千利休であることを思うと、違和感が否めません。三門を過ぎると仏殿があります。仏殿は3間四方の入母屋造です。創建時の建物は応仁の乱で焼失し、また一休が住持の時に再建された仏殿は、堺の商人の尾和宗臨が寄進しましたが、現在の建物は寛文5年(1665年)に京の商人・那波屋常有が寄進をして建立されました。須弥壇上に本尊の釈迦如来像を安置し、脇壇に大燈国師像などが祀られています。建物背後の障塀に海北友松華の雲龍図、天井に狩野元信筆の天人散華図があります。

大徳寺法堂伽藍の中でもひときわ大きい法堂は、一名演法堂ともいわれています。禅宗では法堂は講堂の役目を果たしていて、ここで住持と修行僧によるいわゆる禅問答が行われます。法堂も応仁の乱などに焼失再建を重ね、正面7間、側面4間の現在の建物は、寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝、正則父子により寄進されました。天井に狩野探幽による九龍図が描かれています。法堂の北には寝堂があり、庫裏と方丈が東西に並びます。庫裏は、正面にあたる西側が切妻造、東が入母屋造。一休の再建後に手が加えられましたが、室町時代の様式を残しているといわれています。庫裏東の方丈は正面16間、側面9間、入母屋造の住宅風の大建築。京の豪商後藤益勝の寄進により、寛永13年(1636年)に再建されました。内部は8室あり、うち2室を開山大燈国師の遺骨および木造大燈国師坐像を安粒する雲門庵と、花園法皇の御髪塔としています。山水図、神会図、竜虎図などの襖絵83面は、狩野探幽によります。

法堂には近づけない。

大徳寺一休宗純方丈庭園は寛永13年(1636年)に修造された枯山水で、南庭は天祐紹高の作庭と伝え、巨石を用いた枯滝石組が簡素な趣を見せています。対して東庭は小堀遠州の作といわれ、2重刈込みの低い生垣沿いに石を7・5・3に配し、比叡山を借景としています。  方丈前の唐門は切妻造檜皮葺の四脚門で、前後に軒唐破風を付けています。秀吉の聚楽第の遺構とされていて、明治中期までは勅使門の西にありました。冠木上の豪華な彫刻で知られ、彫刻や金具に見られる動植物の図柄は多彩で、見飽きることがないため「日暮門」の異名があります。大徳寺は先に触れたように、京都の有名寺院の中では珍しく観光地化されておらず、そのため三門も法堂も公開されていないので、近くに寄って見ることも困難ですが、それでも寺域内を散策したり拝観が許されている塔頭を見学すると強い印象を受けます。それは大徳寺が背負ってきた歴史や、禅宗という宗派がなせるものなのかもしれません。

一休宗純の残した足跡は大きい

大徳寺へのアクセス

〒603-8231  京都市北区紫野大徳寺町53

TEL (075)491-0019

京都市バス「大徳寺前」下車徒歩すぐ。

駐車場  : 自家用車  : 25台  : 30分毎100円

拝観時間  境内は拝観自由

拝観料金  : 境内は拝観自由  : 大仙院400円  : 龍源院350円  : 瑞峯院300円  : 高桐院400円  : 9:00~16:30

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/

参考文献  : 司馬遼太郎著 : 街道をゆく(34)大徳寺散歩、中津・宇佐のみち : 朝日新聞社刊

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