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厭離庵は清涼寺より二尊院に至る嵯峨二尊院門前善光寺山町にあります。もと愛宕の中院があったところで、民家が両側に建ち並んでいます。厭離庵はこれらの民家の背後、竹林に囲まれたところにあります。

 厭離庵の歴史

本堂は寺域同様大きくない

厭離庵本堂

鎌倉時代の歌人藤原定家が、小倉百人一首をえらんだ山荘址と伝えられ、久しく荒廃していましたが、冷泉家が再興して霊元法皇より「厭離庵」の寺号と如意山の山号を賜りました。安永元年(1772年)に臨済宗天龍寺派となりました。明治維新後、再び荒廃しましたが、1910年(明治43年)に貴族院議員の大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立して、山岡鉄舟の娘である素心尼が住職に就き尼寺となりましたが、やがて尼僧のなり手がいなくなってからは住職不在の時期がありました。しかし天龍寺から依頼のあった現住職(男性)が住するようになってから、寺内が綺麗に整備されました。西南の竹林は善光寺山といい、もと時雨亭のあったところといわれ、柳の水(硯の水)は定家が小倉百人一首を染筆するときに用いた水と伝えられています。

厭離庵山門特別公開のとき以外は門はこのように人が出入りしにくいようになっている

定家が書きとどめた日記「明月記」に、彼の嵯峨山荘は常寂光寺の北方、小倉山麓にあったものと思われ、この地は定家の嗣子為家の妻の父にあたる宇都宮入道頼綱(蓮生入道)の中院山荘址といわれています。頼綱は当時に於ける富強の豪族で、三井寺再建の際には寄附の筆頭者でした。それが定家の嵯峨山荘の近くの中院に別荘をつくるにあたり、その障子に貼るための色紙を定家に依頼しました。定家は早速、多くの勅撰和歌集から百人の名歌を選びましたが、この時の撰歌には、後鳥羽・順徳両帝の歌がなく、その代りに百人一首にない三人の歌人が入って合計百一人であったといわれ、それが後日、為家あたりによって補訂されたのが現在の百人一首であると言われています。

  厭離庵の散策
厭離庵庭園

写真では分かりにくいが庭の手入れは見事

厭離庵の周辺には清涼寺などの有名寺院がありますが、厭離庵そのものは住宅街の中にあり、しかも道路に面した出入り口は狭くて石碑も小さいので、よほど注意していないと見つけることが出来ません。しかも普段は一般に公開しておらず、突然訪問しても拝観することが出来ません。普段門には「拝観謝絶」の表札が掲げられています。拝観できるのは春若しくは秋の特別拝観公開日になり、筆者もこれを利用して拝観しました。住宅街にある「小倉山荘旧址厭離庵」の石標横の参道(路地?)を少し歩くと小さな山門があります。山門を直進すると時雨亭があります。時雨亭は大正12年に定家の山荘「時雨亭」を再興する意を目的として、建てられました。茅葺きの屋根は趣があり、躙り口がないので茶室としては明るくて、千家が管理している待庵とは違う雰囲気があります。屋根の茅は痛みが少なく、手入れがよくされているのが分かります。

厭離庵茅葺き入手しづらい茅だが、よく手入れがされている

時雨亭の横には書院があります。書院奥には掛け軸があり、それには定家の人物画と定家の書があります。その書は定家本人のものでなく、江戸時代に写しとして描かれたものです。寺域奥の小高い場所に、本堂があります。本堂には本尊である如意輪観音像の他に、開山である霊源禅師、西行法師などの木像や藤原定家などの位牌があります。本堂天井には、西村公朝が描いた飛天があります。本堂は寺域同様、さほど大きくはなく、こじんまりとしていますが、ここも手入れが行き届いていています。何よりも手入れがされていると感じたのは庭園です。紅葉などの広葉樹や庭一面に自生している苔などは、余程丁寧に手入れをしないとあれほど見事な庭園にならないと感じます。ただ残念なことに、参拝者が苔を踏み固めたと思われるところが散見され、折角丁寧に手入れをしているのを心ない参拝者が痛めていることが残念でなりません。

厭離庵へのアクセス

〒616-8427  京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2

TEL (075)861-2508

JR嵯峨嵐山駅下車  徒歩15分

駐車場  : なし

公開不定期

公式ホームページはありません

上記記事の内容は2017年5月に取材したときの内容に基づいています

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