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船岡山は大徳寺の西南に横たわる一丘陵で、東西100メートル、南北100メートル、高さは120メートルにすぎませんが、全山松樹に蔽われ、山頂からの眺望は西陣や北山方面が一望でき、見晴らしは抜群です。近くには金閣寺や平野神社など、有名観光地があり、交通量の多いところです。

 船岡山の歴史

船岡山は昭和43年に当時の文部省によって国の史跡に指定されている。

船岡山 石柱

桓武天皇が、平安京に都を移すとき、中心線となる朱雀大路を設定するのに用いた基準点が船岡山で、ここから南に朱雀大路を設けました。この山を船岡山と称するのは、一般的には山の形が舟を俯けたように見えるからといわれていますが、実際には、あまり似ていません。また山の東端を、古来からすきケ鼻といいます。からすきとは農具の鋤をいったもので、ここの地形がからすきに似ているから、と言われていますが、これも眉唾物と思います。船岡とは、むかし、この山の東麓に大池があって、山の東端が岬のように地中に突き出ていて、あたかも海湖に浮んだ大船に似ていたからで、からすきは唐崎が転化されたもので、鼻は先端のことでしょう。海や湖沼に突き出る崎・岬を唐崎といい、このような地名は全国津々浦々にあります。淳和天皇の離宮紫野院(雲林院)は、この池をとり入れたもので、のちには梶井宮御所の苑池にもなりました。この山は古来からその姿が美しいことで知られ、清少納言をして「岡は船岡」といわしめましたが、また古来清浄の地として、祭妃を修したところで、858年(貞観元年)陰陽寮に命じて五穀を喰い荒らす害虫を採取する祭を、ここでおこなわれたことが「三代実録」にみえ、今宮神社の疫神もまたはじめは船岡山に祀られていました。「今昔物語」に円融天皇が譲位の後、この山麓で、子の日の遊びをされたことを記しています。それによると船岡の北面、小松が所々に群生する中に、遣水をやり、石を立てて砂を敷き、唐錦の平張りを立て、簾をかけて遊宴されたとあります。三十六歌仙の一人、清原元輔が

舟岡の若菜摘みつつ君がため子の日の松の千代を送らん(家集)

と詠じています。古代中国に於ては、正月初子の日に岡にのぼって四方を望むと、陰陽の静気を得、憂いをのぞくといわれ、また歳のはじめに松の実をたペると邪気をはらうとされました。このような風習が日本にも伝わり、藤原時代には初春の遊興として、野に出て小松を引き、若菜を摘んで宴遊を行っていました。船岡山の周辺は、古来から葬送の地で、洛中と洛外の境界でした。「栄華物語」に1025年(万寿2年)に、三條天皇々后娘子を「雲林院ノ西院ノ戌(西北)」に於いて火葬したことがみえるので、平安中期頃からすでにそのようでした。次いで1068年(冶暦4年)、後冷泉天皇を「船岡ノ西北ノ原」に火葬しました。

船岡山 山頂

山頂からの眺めは素晴らしい。

船岡山は平安中期頃から同末期に至る160余年間、葬地でしたが、中世に於ける兵乱の時代にはまた要害の地ともなり、しばしばこの山の争奪戦が行われ、一に船岡城とまでいわれました。即ち応仁の乱には山名宗全はいち早くこの山に城砦を築いて、清蔵口(新町鞍馬口)を抗する東軍を牽制しました。そこで1468年(応仁2年)九月、東軍の将細川勝元は、丹波守護代内藤備前守元貞をして嵯峨方面より西軍を攻撃しましたが、同時に安富香川の一隊をして芝野薬師(大宮五辻)安居院口(大宮寺ノ内)へ、また山名是豊・薬師寺輿一・浦上美作守則宗等の一隊は船岡山に打向わしめ、以って西軍を挟撃しようとしました。この計画は西軍の反撃を喰らつて丹波勢は大江山(老ノ坂)に退却しましたが、船岡山は背後からの奇襲攻撃によって落城しました。「応仁記」によると、東軍の将、浦上美作守の一兵卒、一若という足軽は、僅か五・六十人の手兵とともに船岡山の背後にしのび寄り、堀を飛び越え、石築地を飛びあがり、敵の陣屋の片脇に火をかけたので、守護防戦にあたっていた西軍の一色勢は、大いに驚き取るものも取りあえず後退し、守将小鴨安芸守は戦死したといわれています。

船岡山 公会堂

山頂公園には、音楽公会堂がある。

それより四十余年後の1511年(永正8年)、再びこの山の争奪戦が行われました。この時の合戦は、船岡山から大徳寺・今宮一帯に布陣する足利義澄・細川澄元の一万余騎の軍勢と、丹波より長坂口を経て京都へ攻め寄せた足利義植を擁する大内義興・細川高国等の軍勢三万余騎とが、船岡山を中心に戦ったもので、激戦の後、細川澄元勢は三千余人の戦死傷者を出して敗退しました。この合戦は足利管領細川政元の養子である澄元と高国の二人が、惣領制をめぐって争ったことが起りで、加えて前将軍足利義植と義澄との内紛がからみ、澄元は足利義澄を擁し、高国は足利義植を擁して、1507年(永正4年)以来両者が争ったものです。現在、建勲神社背後の山中に、深さ一・二間内外の長い溝のような堀りくぼんだところがあって、これを応仁・永正時の塹壕址とも、陣屋の址とも言われていますが、確定されていません。1582年(天正10年)六月、織田信長が本能寺に倒れるや、豊臣秀吉は同年十月大徳寺に総見院を建立し、盛大な葬儀を営みました。次いで船岡山を古渓和尚に寄達し、山上に天正寺を建立して信長の菩提を弔おうとしましたが、これは実現しませんでした。しかしそれより後は山の大半は大徳寺領となり現在に至りましたが、昭和六年京都市が都市計画により、この山に公園を設け、船岡山公園と称しました。

  船岡山の散策

山頂には公園が出来たときの由来が彫られた石碑がある。

船岡山 石碑船岡山は今宮神社の南にあり、近くには金閣寺や大徳寺などの観光名勝も多数あります。京都市北部のランドマークのようになっていて、平安期から様々な行事が営みがあったのも頷けます。船岡山は余り観光化していないので、山に登るのには、公共の交通機関を利用して訪れるか、附近のコインパーキングに自動車を置いて登ります。山の南斜面は比較的急斜面ですが、北斜面は勾配が緩やかになっています。山といっても標高は高くなく、どちらかと言うと丘に近い感じがあり、頂上まで登るのに時間はかかりません。山頂附近は公園化されていて、近所の方の憩いの広場になっています。小さなグランドではソフトボールに興じているグループや、早朝には太極拳をしている人たちもいます。小さな音楽公会堂もあり、小さな展しものが、あったりします。船岡山が公園化されたのが昭和の初期で、桜の木が植えられたのも、この時です。京都本やインターネット上では、京都市が整備したように書かれていますが、整備の中心となったのは地元の人たちで、それを顕彰する記念碑が山頂にあります。今でも地元の方は、遊歩道の清掃や草花の手入れなど、丹念にこの地を奇麗にされています。周囲には遮る物が無く、春や秋に散歩に訪れると爽やかな時間が過ごせます。山頂からの眺めは西陣から北山にかけて一望出来て、応仁の乱などの都の戦乱でここを争奪する争いがあったのも頷けます。

建勲神社は瀟洒ながらも凛とした雰囲気がある。

船岡山 建勲神社

船岡山には織田信長を祀った建勲神社があります。信長は永禄・天正の戦乱に大義を唱え、皇威を恢復し、皇居を造営して朝儀を再興したので、明治天皇はその業績を追徴して社殿を創建しました。当初は羽州天童藩主織田氏邸内にありましたが、明治13年船岡山の東麓にうつし、その後現在の山上に遷したもので、本殿には信長を主神とし、その子信忠を配祠します。境内は余り広くありませんが、非常に綺麗に整備されていて、人の手が隅々まで入っているのがよくわかります。本殿の屋根は片流れの神社形式、桧皮葺で、痛みがほとんど無く、綺麗なのに驚きました。最近は桧皮が確保できずに困っている神社や寺院が多く、費用も掛かるので、屋根が荒れたままになっていたり、銅葺に変えたりしている所もあるので、感心してしまいました。神社の方に話を伺うと、その事を非常に自慢されていました。屋根瓦には、菊の紋章が入っていて、この神社が官弊社であることが分かります。本殿の前にある拝殿も綺麗にされていて、失礼ながら余り有名でないこの神社が、この様に状態良くされていて、嬉しくなりました。

船岡山へのアクセス

〒603-8243  京都市北区紫野北舟岡町42

京都市市バス「船岡山」下車、北へ徒歩約7分。

駐車場  : なし。近くのコインパーキングをご利用ください。

入場時間  : 自由

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://kanko.city.kyoto.lg.jp

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