今出川

川と川が合流した川

今出川通りは、西は京福電鉄等持院踏切から、東は銀閣寺門前に至る全長約7キロの通りで、京都の主要通りの一つに数えられます。主要道路の割には道幅が狭く、常に交通渋滞を起こしています。通りの名前が示すように、かつてはここを川が流れていました。この通りの界隈には、京都大学や同志社大学など、大きな大学が並んでいます。

今出川標識

京都は川の名前の付いた通り名が多い

今出川の歴史

1753年(宝暦3年)に出版された『中昔京師地図』は、その当時の京都を描いています。それには、今出川のことを「この水、雲ケ畑の中津川より来る」と著し、中津川の水が直接「今出てきた」ということから今出川と名づけられたとしています。しかし、中津川は賀茂川直接に合流しているので、今出川に流れこむことはありません。中津川は上流で賀茂川に流れ込んだ後、今出川付近で高野川と合流します。かつては合流した後に今出川に流れ込んでいました。古来中国では、川がこの様に交差するときは、右上流の川の水は左下流へ、左上流の川の水は右下流へ流れていくという考え方がありました。今出川の名前は、この考えに影響を受けて付けられたともいわれています。

京福電鉄「白梅町」駅

京福電鉄は京都に残る唯一の路面電車

今出川は、平安時代には「中河(中川)」とか「京極川」とも呼ばれていました。この頃、鴨川が「東河」と呼ばれ、桂川が「西河」と呼ばれてて、その中間にある川であることから中河と名付けられたと思われます。川沿いには、公家の邸宅や寺院が軒を並べていました。今出川と呼ばれるようになったのは、中世になってからのようで、鎌倉時代に京極の河道と、上流部の東洞院川の河道を現在の今出川通と一条通で合流させ、新しく今出川通りが生まれました。その頃今出川通りは北小路と呼ばれていました。ただ通りの名称は、鴨川より東、新町西当たりまでを指していたようです。川としての今出川は、大正の初めごろまで同志社大学前から河原町通にかけて残っていましたが、1917年(大正6年)の京都市電の開設に伴う道路拡幅により、暗渠化されてしまいました。

今出川の散策

上七軒石碑

この石碑の奥に北野天満宮がある

今出川通りを西から見ていきましょう。今出川通りの最西部には、京福電鉄「白梅町」駅があります。京福電鉄は、1942年(昭和17年)に京都電燈の鉄軌道事業を継承し、京福電気鉄道株式会社設立されました。京福電鉄の社名は、鉄道事業を行っていた京都と福井それぞれの頭文字を採ったものですが、京都と福井を結ぶ鉄道があったわけではありません。京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は逆に織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために前身の京都電燈が建設した「京福送電線」が語源となっています。白梅町駅があるのは京福電鉄北野線で、北野線は白梅町と帷子ノ辻を結ぶ路線です。京福電鉄は京都に残る唯一の路面電車で、白梅町駅もレトロな雰囲気を残す駅舎です。普段は通勤通学で利用する乗降客で朝夕が混雑しますが、年始は近くにある北野天満宮に初詣に向かうお客さんで一日中ごった返します。白梅町駅から東に行ったところに、その北野天満宮はあります。京都市民には天神さんの愛称で親しまれ、月命日の25日には、神社境内から周辺を取り巻いて市が立ち、年末には終い天神、新年には初天神と呼ばれてとりわけの賑わいがあります。天神さんの東門前には、京都の六花街の一つ、上七軒があります。応仁の乱で焼失した北野天満宮の社殿の修造があり、その余った用材で七軒の水茶屋が建ったのが名の起こりとされています。豊臣秀吉が聚楽第を設け、それを祝うかのようにして催された北野大茶会を開いた際、この水茶屋に休んでときに出されたみたらし団子が気に入り、京都一円の株を許した。上七軒の意匠のつなぎ団子は、この故事に由来します。江戸時代になって元禄期には上七軒は大きく膨れあがり、茶屋は七軒どころか数十軒を数えるようになりました。京の公許の廓は、島原だけでしたが、上七軒はその由緒、格式から別格に扱われました。

同志社大学

同志社大学は近年出来た建物も外壁は煉瓦造り

再び西に向かい、烏丸まで行くと同志社大学があります。同志社大学は、1864年(元治元年)に新島蓑が国禁を犯してアメリカに渡航し、キリスト教学を学んで帰国したあと、明治八年に相国寺の門前近くで英語学校として開校したのが始まりです。やがて、京都府顧問で、府会議長を務めて妻の兄でもある山本覚馬から、現在地の今出川通烏丸にあった旧薩摩藩邸を500円で譲り受け、現在の同志社大学が始まりました。同志社大学で目に付くのは、赤い煉瓦の建物です。最初に建造された赤煉瓦の建物は彰栄館で、1884年に完成しました。現在では京都で最古の煉瓦建造物です。彰栄館の三年後に建てられたのが、同志社大学を象徴するクラーク神学館です。この神学館が出来た経緯は、1890年に逝去した新島襄を記念する建造物を建てるために募金活動をしていましたが、思ったような浄財が集まらず、頓挫しようとしていましたが、新島が在世していた頃から支援していたアメリカン・ボード(アメリカの海外伝道団体)より、ブルックリンに住むクラーク夫妻が早世した息子を記念した建物を建てるのであれば一万ドルを寄付する、との申し出があり、同志社はこれを受け入れて建設に至った経緯があります。同志社大学の南にあるのが、京都御苑です。794年(延暦13年)、桓武天皇の命により定められ平安京の内裏は、度重なる戦乱で幾度も焼失し、当時の姿を残すものは何もありません。現在残っている京都御所は、1854年(安政元年)に焼失して、翌年に平安様式にならって徳川幕府によって再建されたものです。御所と御苑の違いは、御所は天皇の住まいである内裏であるのに対し、御苑は御所を含む周囲の公園や仙洞御所及び京都迎賓館が含まれています。詳しくは「京都御所」をご覧下さい。

白沙村荘

白沙村荘は数年前に火事があったが再興した

今出川東果ては銀閣寺になりますが、その手前に橋本関雪記念館があります。橋本関雪は大正・昭和に掛けて活躍した日本画の巨匠で、橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれ、本名は貫一と言います。父から漢学を学び、1895年(明治28年)四条派の画家片岡公曠に入門。18981903年(明治36年)に竹内栖鳳の竹杖会に入り、1913年(大正2年)に文展で二等賞になってから世に知られるようになりました。その後数々の名画を世に送り出し、1937年(昭和12年)には帝国芸術院会員になりました。1916年(大正5年)銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号しました。白沙村荘の庭園は現在一般公開され、白沙村荘は橋本関雪記念館として公開されています。記念館として橋本関雪の作品を見学できます。他にも母屋「瑞米山」のお座敷を中心に、京料理を味わうことも出来ます。

アクセス

京都市営バス203号を利用するのがお薦めです

上記内容は2013年3月に取材したときのものです

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