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京都のメインストリート、烏丸通りは北は今宮通から南は京都駅を越えて、久世橋通に至る交通量の多い通りです。上御霊神社はその烏丸通り鞍馬口の南東方向にあり、周囲には相国寺などの著名な寺社や、同志社大学などの教育機関、京都御苑があり、市内にあっても静かな雰囲気があります。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としています。

 上御霊神社の歴史

楼門は北野天満宮を思い起こさせる

上御霊神社 楼門

上御霊神社の起源は古く、奈良時代末期とされていて、怨霊をしずめるために八所の御霊を祀った神社で、本市に於けるもっとも古い著名な神社のひとつになっています。現在の祭神は

の八座となっています。これらの人たちは、奈良時代の末期から平安時代初期に在世した人々です。このうち井上内親王 (聖武帝皇女)は、772 年(宝亀3年)に光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、御子他戸親王とともに大和国宇智郡に幽閉され、そこで他戸親王と同日に薨去します。また早良親王(桓武帝同母弟)は、785年(延暦4年)九月、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で、自ら食を断って自死します。その後、桓武天皇の皇后高野新笠、藤原乙牟漏が相次いで亡くなり、長岡京には疫病が流行し、皇太子安殿親王(平城天皇)も長患いとなり、絶えず怨霊に悩まされて、いつしかこれは早良親王等の崇りであろうといい出されます。そこで親王らの慰霊のために、800年(延暦19年)に早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王には再び皇后と追称し、墓をともに山陵を構されます。また、その怨霊をなだめ祀るために廟をたて、御霊社と号されました。これが上御霊神社の起りといわれ、その正確な創祀年月は、はっきりしていませんが、公式ホームページには794年(延暦13年)とされています。

上御霊神社 絵馬舎

絵馬舎に掲げている絵馬は、うっすらと絵の具が残っている。

次いで806年(大同元年)桓武天皇々子伊豫親王は、異母兄平城天皇が即位することになって、その皇太子となりましたが、翌年十月、藤原宗成が謀反を謀ったことから疑われ、母藤原吉子(藤原是公女)とともに捕えられて、川原寺に幽閉されましたが、逆に毒をのんで母子共に自害しました。この事件は、さきの種継事件とともに藤原氏が権力を握るに至る道程に起った一連の事件の一つで、この人達は政争の渦にまき込まれた不幸な犠牲者でもあります。調停は、839年(承和6年)に、伊豫親王に一品、母藤原吉子には従二位を追贈し、霊廟を建ててその怨霊をなだめ祀ります。その鎮座地がさきの御霊社より南に齋祀されたので、これを下御霊社とよんで区別しました。

拝殿も綺麗に手入れがされている。

上御霊神社 拝殿

その後、橘逸勢・文屋宮田麿を合祀し、祭神は六座となりましたが、これらの人々は、いずれも、言われなき罪を問われて、非業の死を遂げた人たちです。この時代には天災地変や悪疫の流行は、怨霊のたたりによるものと信じられ、これらの人々の霊をなだめ祀るため、朝廷は863年(貞観5年)神泉苑に於て御霊会を行います。これが御霊会の始まりとされています。のちさらに吉備真備・火雷神を加えて八座としました。しかし吉備は文武天皇の皇女吉備内親王との説があり、火雷神は菅原道真であるともいわれ、また八座の中に藤原広嗣を加えるなど、当社の祭神については古来諸説あって、確定していません。このようにして都の地に二つの御霊社が祀られていましたが、中世、下御霊社は他に移転し、上御霊社のみは往時のままに鎮座されています。上御霊神社は創建以来、朝野の崇敬が篤く、朝廷では産土神として尊信されて、創建以来、神殿の改築にあたっては内侍所の権殿を下賜されるを例としてきました。現在の本殿は、1755年(宝暦5年)賢所御殿を下賜されたものといわれ、毎年五月十八日におこなわれる祭礼 (御霊祭)に用いる神輿は、後陽成・後西両天皇の寄進といわれいます。

本殿の屋根の造りは変わった感じ。

上御霊神社 本殿境内中央に西南して建つ本殿には八所の御霊を祀り、相殿には宮中に祀られていた三社明神・和光明神を配祀しています。また絵馬舎には、皆川湛園や渡辺崋山の筆とつたえる「武者絵」や安政年間に奉納された「鴨川浚砂秒持ち図」等の絵馬を掲げていました。境内には多くの摂社・末社かありますが、このうち花御所八幡宮は、明治維新前まで小山(出雲路北)にあった五所八幡を移したもので、それ以前は足利室町第内にあった花之卸所八幡宮といわれています。上御霊神社の境内には、御霊の森と呼ばれた雑木林がかつてありましたが、いまでは社域も狭く、樹木も少なくなっています。かつては広大な地に鬱蒼と樹木が生い茂っていたので、御霊の森と呼ばれていました。1467年(應仁元年)正月十八日、この日、畠山政長は自邸を焼いて御霊の森にたてこもり、同族の畠山義就と戦います。これが応仁の乱の起りで、合戦はその後十一年間もつづき、京都の大半を焦土にしました。上御霊神社は応仁の乱発端の地であります。

  上御霊神社の散策
     

八幡様が上御霊神社にあるのは、武家の影響か。

上御霊神社 花御所八幡宮上御霊神社は、烏丸鞍馬口を少し下がると、細い道ですが上御霊前通りがあり、それを東に入るとあります。かつては広い社域を有していましたが、応仁の乱でかなり狭くなってしまいました。それでも境内にはいると拝殿や絵馬舎があり、決して狭い、と言ったわけではありません。正面入り口である楼門も堂々とした造りで、伏見城の四脚門を移築されたもので、北野天満宮を思い起こさせました。楼門を過ぎて右手に歩いていくと、絵馬舎があります。絵馬舎も立派な造りで、宝暦年中(1751~1763)内裏賢所権殿を下賜されて、絵馬舎に改めたもので、掲げてある絵馬も皆川淇園・小林雪山等大きな物ですが、絵の剥落が激しく、多くの絵馬に何が描かれているのか、分からない状態でした。私が訪れた時は真夏で、その時は近所の子供達のコンクールの絵が展示されていて、上御霊神社がいかに地域の中心的存在であるかがわかります。絵馬舎のすぐ左前方に、拝殿があります。拝殿は江戸期になって造られたもので、上賀茂神社の拝殿に似た雰囲気があります。拝殿も時代を感じさせながらも、よく手入れがされていて、立派な本殿にふさわしい感じがします。本殿も1733年(享保 18年)に内裏賢所御殿移築されたのをのちに昭和45年に復原しました。さほど大きくはありませんが、よく手入れがされていて、これも立派な造りです。屋根は銅葺きで、よく見ると唐破風の屋根のうえに、切り妻屋根を乗せたような不思議な屋根で、余り他では見受けられない感じがします。

新村出博士の達筆ぶりが伺われる。

上御霊神社 新村出歌碑本殿の左手に行くと、境内神社があります。ここには、神明神社・稲荷神社・厳島神社・花御所八幡宮・大舞神社・天満宮社・多度神社・貴船神社・粟島神社・白髪神社・長宮三十社が勧進されていて、その中でも花御所八幡宮は、他の勧進社とは独立したように祠があります。先に触れたように、花御所八幡宮は、足利室町第内にあった花之卸所八幡宮といわれていますが、八幡信仰の根強さがここにも現れていて、興味深くしばらくの間、見ていました。楼門近くに、文学博士の新村出を顕彰した石碑があります。新村出は山口県の出身で、東京帝国大学を卒業した後、フランスやイギリスを留学し、その後帰国。帰朝後に京都帝国大学教授に就任します。言語学講座を担当し、1919年(大正8年)には文学博士、1936年(昭和10年)に定年します。帰朝後は、終生上御霊神社の近くに住んでいます。石碑の後ろには、歌碑の説明をした立て看板があり、次のように書いてあります。

新村出歌碑

上御霊のみやしろに
詣でてよめる

千早振る神のみめぐみ
ふかくして
八十ぢに満つる
幸を得にけり

昭和三十一年十月四日

広辞苑の編者として著名な新村出博士(1876~1967)は言語学のみならず南蛮学吉利支丹研究等にも多大な業績を残され、広く我が国の学術の振興に貢献されました。博士は大正十二年より終生、当社氏子の小山中溝町に住まわれ、右の歌は満八十歳の誕生日に参拝の折、献詠されたものであります。尚博士はこの年十一月に文化勲章を受章されました。

神社へのアクセス

〒602-0881  京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地

TEL (075)441-2260  : FAX (075)441-6066

地下鉄烏丸線鞍馬口駅 : 徒歩3分

駐車場  : なし

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/index.html

神社周辺の観光・宿泊

観光地: 京都国際マンガミュージアム 京都府立植物園 京都御所 下鴨神社

宿泊施設: 京都ブライトンホテル 京都全日空ホテル 京都国際ホテル
ホテルハーヴェスト京都 京都ガーデンパレス 宿屋西陣荘