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鴨川は京都市の東部を流れる川で、歌謡曲にも登場する京都を代表する川です。往古は京都盆地を斜めに横切るように流れていましたが、桓武天皇が都を整備するときに、大規模な治水工事をして現在見られる川の流れになりました。また、夏にはカップルが計ったように並んで座り、納涼床と共に夏の風物詩となっています。

    鴨川の歴史

鴨川はかつてはかなり汚れていたが、今ではすっかりきれいになった。

鴨川

鴨川は平安京では都の東部境界線とされ、それより東は異界とされました。当時は治水がよくなかったので、よく氾濫し、白河上皇は自分の思う通りにならないものに3つあるとして(天下三大不如意)、賀茂の水・賽の目・比叡の山法師を挙げるほど、鴨川の治水には手を焼いていました。河川法上では、起点よりすべて鴨川の表記ですが、高野川との合流点より上流は、通例賀茂川と表記されます。加茂川と表記されることもあります。かつては鴨川の河原では死者を火葬したこともあり、「穢れ」の地でした。

「日本紀略」では「鴨川」「賀茂川」どちらの表記も混在していますが、平安時代には流域により表記を区別していたわけではありません。これはもともと「KAMO(鴨・賀茂・加茂)」という言葉と「KAMI(神)」が同じ言葉だからです。発音は少し違いますが、上鴨さん、下鴨さんというのは、上神様、下神様と同じ意味になり、かみしも(上下)という場合のカミ(上)も、神様のカミ(神)同源です。そのことは山城風土記に賀茂社の由来が書いてあります。

鴨川納涼床鴨川の夏の風物詩がこの納涼床。
自然の風に吹かれてビールを飲むのはおいしい。

賀茂建角身命(かもたけつののみのもこと)が、神武天皇の大和東征に先導に立ち、大和の葛城山に宿った。その後桂川と鴨川の合流点に遡りそこから賀茂川上流を望んで「狭くて小さいけれども、この石川は清川(すみかは)だ」と言ったので、それで鴨川のことを石川の瀬見の小川とも言うようになりました。建角身命はさらに遡り、久我の北の山基に落ち着いたので、その時から賀茂と呼ばれるようになりました。これは氏族名のカモ(賀茂)というカミ(神)が、川をカミ(上)の方へ遡ったことを示し、賀茂・神・上は連続した語であることが分かります。鳥の鴨が神の使者と見られるのも、水辺に渡ってくるからで、それらは同一の起源を持つ言語であることが分かります。

鴨川「弥次喜多」
  鴨川の散策

三条大橋にある「弥次喜多」の銅像。
ここは東海道五十三次の終点。

現在の鴨川は、かつて暴れ川ではなく、堤防のある流れの穏やかな川になっています。これは古くから徐々に改修された事もありますが、大きな改修は1947年(昭和22年)に完成したときのものです。この時の改修は1935年(昭和10年)の水害で、死傷者83名のほか、三条大橋や五条大橋の流失など大きな被害を出したのが大きな動機となっています。三条大橋と五条大橋の歴史は比較的浅く、秀吉の関白時代の頃で、三条大橋は東海道の物流を良くするために増田長盛に命じて造られ、五条大橋は方広寺へ参詣するために新たに設けられ、それまでの五条橋は現在では松原橋となっています五条大橋 参照。

これは四条大橋東側に建つ南座横にある出雲の阿国の碑。

鴨川「阿国の碑」

中世の鴨川は、河原が歓楽地となり、多くの芸人が集まるようになりました。その中の一人に出雲阿国がいます。歌舞伎は阿国が始めた女郎歌舞伎から、現代に続く野郎歌舞伎の元祖と言われ、京都南座の横には阿国を讃える碑があります。江戸時代には芝居小屋が八軒川の東岸にありました。明治時代には南座と北座がありましたが、四条通りが拡幅されるのに伴い、北座は取り潰しとなり、四条通りには市電が施設されました。今でも鴨川では、夏になると様々なイベントが執り行われています。また京都市と京都府がタイアップをして鴨川を周遊して散策が出来るルートが造られています。昭和40年ぐらいまでは、川の汚れが非道く、川に魚が居ませんでしたが、今では釣りを楽しむ人も多く、その横では鴨川沿いに図ったように等間隔に座って、カップルが愛を語らっています。

鴨川のアクセス

京阪四条駅又は京阪三条駅より出てすぐ

鴨川周辺の観光・宿泊

観光地:八坂神社 建仁寺 祇園 木屋町 先斗町 新門前

宿泊施設:ギオン福住 京都祇園ホテル 料理旅館 花楽 祇園佐の き乃ゑ