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京福電鉄を四条大宮で乗車し、白梅町に向かうには、途中で帷子ノ辻駅で乗り換える必要があります。この帷子ノ辻駅があるのは、太秦帷子辻町という町で、周囲には住宅や商店街が広がり、生活感が色濃く漂う町並みです。また、帷子ノ辻駅が京福電鉄の乗換駅であるように、面した道路も下嵯峨・北嵯峨・常盤に至る分岐点に当たります。筆者が幼かった頃、この町の名前を「かたびらのつじ」と読むことが出来ず、困った思い出があります。

 帷子ノ辻の歴史

帷子ノ辻 標識帷子ノ辻はこの地域の交通分岐点

この地が帷子ノ辻と呼ばれるようになったのには、幾つか説があります。有名なのは嵯峨天皇々后橘嘉智子を嵯峨深谷山に送葬のとき、棺に覆うた帷子の衣が風に吹かれて飛び去ったところといわれ、その葬列が余りに簡素に行われたことから、当時の人々に伝承されて地名となったものといわれています。橘嘉智子は、仏教の信仰が厚く、檀林寺を建立したことから「檀林皇后」と呼ばれていました。しかしこれはあくまでも伝説で、物語としては面白いのかもしれません。別の説もあります。帷子とは、当初は装束の下に着る汗取り用の肌着であり、現代で言えばシャツに当たります。初めは絹で作られていましたが、江戸時代になると麻の帷子も作られるようになりました。平安初期の帷子ノ辻付近は、養蚕や機織の技術などで朝廷に仕えた秦氏の支配地で、秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を奉じて、推古11年(603年)に創建したという広隆寺は、すぐ東六百メートルの所にあり、その中には秦河勝や漢織女や呉織女を祀る太秦殿があります。また近くには、木島坐天照御魂神社があり、そこには秦氏の祖先を祀る蚕養社があるので、ここは蚕の社と呼ばれています。詳しくは「蚕の社」を参照してください。このことから、この地で生産された絹を用い、この周辺で湯帷子(ユカタピラ・浴衣)を作っていたので、帷子ノ辻と呼ばれるようになったとの説です。この説は檀林皇后の伝説より説得力があります。

京福電鉄帷子ノ辻駅京福電鉄帷子ノ辻駅は、京福電鉄唯一の乗換駅

また別の説では、この地の地形から来ているとの説です。カタビラから濁音を取ると、カタヒラになります。これを素直に取ると「カタ」と「ヒラ」が合わさって出来た言葉だと解釈できます。カタに漢字を当てはめると何になるでしょうか。「堅」・「片」・「潟」・「固」あたりでしょうか。ヒラは「平」・「枚」でしょうか。帷子ヶ辻周辺の土地は川沿いにあって軟弱であり、それを照らせ合わせて考えると、「堅」や「固」は当てはまりません。「枚」をヒラと読むことはあまりありませんが、大阪には枚方(ヒラカタ)という地名があります。試しに「片平」で地名を探すと、奈良県山辺郡山添村・神奈川県川崎市麻生区・福岡県大牟田市などがあり、「潟平」で探すと福島県会津若松市にあります。「帷子」では、岐阜県可児市・岩手県八幡平市などがあり、何れも川や水辺の近くです。大阪の枚方市も近くに淀川が流れていて、水辺の近くになります。それらを考え合わせると、片側が水辺で開けた土地、と解釈することが出来ます。他にも古語としてカタはカチ「徒歩」と同義語で、陸地を歩いて行く意味となり、ヒラは集落を意味したホラ「洞」に連なる言葉で、川から上がって『陸地を歩いて行く所』という土地である、と言う説もあります。「カタヒラ」は「カタヒロ」が変わったもの、とも受け取れます。帷子ノ辻周辺の土地の状況を考えると、大堰川の右岸(片側)にあって広がったところにあります。それを考えれば、本来の地名は帷子ではなく、片平か片広が適切なように思えます。

  帷子ノ辻の散策
仲野親王高畠陵

仲野親王高畠陵は鬱蒼としている

最初に書いたように、帷子ノ辻周辺には住宅や商店街が多いので、観光として訪れてもさほど見るところは多くないです。少し足を伸ばせば太秦映画村や松竹撮影所・東映映画撮影所・大映通りなどの映画に関係した施設があります。これについては、「太秦」を参考にして下さい。帷子ノ辻を含むこの周辺は、古くから豪族や貴族が住んでいたところで、それに関係した遺跡が残っています。京福電鉄帷子ノ辻駅から北に歩くと、小高い丘陵があり、そこには桓武天皇皇子仲野親王高畠陵があります。仲野親王は、桓武天皇と藤原大継の娘である河子との間に生まれた皇子で、延暦11年(793年)に誕生しました。長じて太宰師になり、秦寿宣命の道を学び、これを用いて師法を失わず、音儀詞語は範とするところであったから、藤原基経らは親王について習ったといわれています。貞観9年(867年)に崩じ、この地に葬られました。仲野親王高畠陵は宮内庁管理の陵墓のため、一般には立ち入ることは許されず、周囲を回って見るだけです。陵墓全体はこんもりとした山のように思え、手入れが行き届いているようには感じられません。但し、周囲から見ての感想なので、中に入るとどうかは分かりません。

蛇塚古墳蛇塚古墳は金網で囲われてる

帷子ノ辻から少し距離がありますが、京都市内で最大の古墳があります。西南に1キロほどのところに太秦面影町があります。ここにあるのが蛇塚古墳です。本来なら土台となる岩に盛り土があるのでしょうが、その土は洗い流されて、奈良の石舞台古墳のように、巨石が露出しています。元は横穴式の前方後円墳ですが、現在ではその姿をとどめていません。周囲は金網で囲われていてます。風化が激しいせいか、石室内にはH型鋼で補強され、崩れないようになっています。金網の入り口付近に古墳を解説するボードが設置され、それには次のように書かれています。「この巨石の石組みは、古墳時代後期末7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。本来は全長約75メートルを測る前方後円墳であった。早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。棺を安置する玄室の幅は、奈良県の石舞台古墳よりも大きく、また床面積はでは、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台古墳につぐ全国4位の規模を誇っている。この太秦を含む嵯峨野一帯は、渡来系の秦一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態などからみて首長クラスの墓と考えられる。なお、蛇塚という名称は、石室内に蛇が棲息していたことから付けられた呼び名である。」古墳周囲を散策していると、古墳入り口付近で呼び止められました。呼び止めたのは、近所に住んでいる住民の方で、古墳に興味があるなら中に入ることが出来る、と言われました。好意に甘えて入り口の鍵を開けていただき、石室内部を見学しました。先にも書いた通り、内部は石室が崩れないように鉄骨で補強されています。それに当たらないように背を屈めながら入っていくと、外から覗いていたときと違って、意外と広く感じました。古墳に入るのはこれが初めてで、ひょっとすると、かつては秦一族の誰かがここに眠っていたのではないかと思うと、これまで感じたことのない気分になりました。

帷子ノ辻へのアクセス

京福電鉄帷子ノ辻駅下車

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