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金閣寺

鐘湖池に映る金閣や北山を借景にした風景は長時間見ていても飽きない。

金閣寺の正式名称は臨済宗相国寺派鹿苑寺となります。金閣寺の名称は、中心となる建築物である舎利殿が金箔で覆われていることから、「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称されます。また鹿苑寺の「鹿苑」は足利義満の法名から取ってあります。

 金閣寺の歴史

現在金閣寺がある当たりは元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいました。勝原道長が営んだ法成寺をしのぐ壮大な伽藍が造営されました。公経の造営した北山殿は、寝殿を始めとする建物や滝と池を配した広大な庭園がありましたが、本堂や五大堂など多くの仏舎もあって、寺にウエイトを置いて西園寺と呼ばれるようになりました。この名称にちなんで、藤原北家の流れをくむ公経より後のこの家柄を西園寺家と呼び、公経を西園寺公経と呼んでいる。公経がこのような壮大な庭園を持てるようになったのは、承久の乱の際、公経が朝廷側の情報を幕府に伝えていました。このこともあって公経は息子の実氏と共に上皇側に逮捕・拘禁されています。しかし乱が幕府側の勝利に終わると、公経の地位は躍進して、乱の翌年には太政大臣になります。乱の三年後に公経は北山殿の造営をします。

金閣寺桃の魔よけ

金閣寺の玄関で見かける桃を模した瓦は「古事記」の中に伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が悪魔に追いつめられ、桃を投げると、悪魔を退散した話から来ている魔よけのしるし。

その後公経は関東申次という要職につき、さらに西園寺家が世襲することになりました。このことは公経に膨大な富をもたらしました。西園寺家は多くの荘園を持つことができたからです。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまいます。そのため南北朝時代になると西園寺家は衰退し、境内も次第に修理が及ばず荒れていきます。応永4年(1397年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、自身は将軍の地位を譲りながら、太政大臣として強大な権力を握っていた義満は、可能な限りの贅を尽くし、各地の守護大名たちからは白山石、赤松石、細川石などの名石を献上させました。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれました。

金閣寺は鐘湖池に浮かぶ出島のようになっていて、
北側から見るとこのような出入り口がある。

金閣寺邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約されました。応永9年(1402年)に明(中国)皇帝から送られた、「爾日本国王…」と綴られた国書をうけ取ったのもこの場所だったといわれます。応永15年(1408年)に義満は急死しますがその後は遺言により、夢窓国師を勧請開山として禅宗寺院に改められます。鹿苑寺の寺号は、義満の戒名である鹿苑院殿にちなんで命名されました。当時から壮麗な舎利殿(金閣)は話題になり、金閣寺の通称はこの頃から用いられていたようです。応仁の乱では西軍の陣となり、多くの建物を焼失し、また多数の仏像が他所へ持ち去られるという災難に遭いますが、金閣は兵火を免れ、室町末~江戸前期には伽藍の再建も進み、ほぼ現在の寺観となりました。昭和25年には学僧の放火によって金閣を焼失するという事件が起きますが、昭和30年に再建されて創建時の輝きを取り戻し、平成6年に古都京都の文化財として世界文化遺産に登録されました。

  金閣寺の散策

金閣寺の方丈は他の有名寺院に比べて質素。

金閣寺方丈拝観受付を通り過ぎると、右手に庫裏があり、その奥に方丈と書院があります。ここは常時拝観は出来ません。特別拝観が定期的にあります。最近補修工事が行われ、痛みの激しい部分は綺麗になっていて、一部杉板戸の絵も京都と東京の日本画の絵師が、四季を題材にした絵画を描いて奉納していました。庭には義満お手植えの松と伝えられている「陸舟(りくしゅう)の松」があります。この松はかなりの古木で幹が太く、枝も大きく茂っていますがとてもよく枝打ちがされていて、見事な樹形をしています。

銀河泉は義満が茶の水に使かった。

金閣寺銀河泉方丈を出て、左手に向かうと目の前には鑑湖池が広がり、対岸には金閣(舎利殿)がその姿を現します。通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で、金箔が貼ってあるのは二・三層だけです。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満像を安置します(安置仏像を「阿弥陀如来」とする資料もある)。二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置してあります。三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称すします。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られています。鹿苑寺金閣は第二次大戦前から国宝に指定されていましたが、昭和25年(1950年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上焼失してしまいます(金閣寺放火事件)。林は寺の裏山で自殺を図りました。国宝の足利義満像も焼失しました。なお、屋上にあった鳳凰は、初代のは火災以前に取り外されていたため焼失をまぬがれ、現存しています(相国寺で保管されている)。焼失したのは2代目で、現在金閣の屋上にあるのは4代目になります。

夕佳亭の内部は狭く、人が座るスペースが少ない。

金閣寺夕佳亭周囲に広がる庭園は連なる山並みを借景とした池泉回遊式・舟遊式庭園で、その中心である鐘湖池は約6600㎡あり、葦原島、鶴島、亀島といった大小の島々や創建時の守讃大名らが献上した名石が浮かびます。金閣の北側へ回ると、義満が茶の水に使用したという銀河泉や、手を清めたという厳下水、鯉が池を上ると龍になるという伝承にちなんだ龍門滝などが並んでいます。参詣順路に歩いていくと、夕佳亭があります。この建物は金森宗和好みと伝えられる茶室です。寄棟造り茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造り柿葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっています。明治初年に焼失したため、明治7年に再建されました。平成9年にも解体修理を行っています。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られています。外からは中の様子がよくわかります。茶席としては非常に質素で、外の待合いも驚くほどに簡素です。

不動堂は石不動明王が祀られている。

金閣寺不動堂出口付近には休憩所である茶店の斜め向かいに、弘法大師が造られた石不動明王が祀られている不動堂が見えます。不動堂は全体的に傷みが進んでいて、他の建物と雰囲気が違い、違和感があります。不動堂は嘉永元年(1225年)に建立され、文明17年に焼失して、天正年間に宇喜多秀家が再建をしました。鹿苑寺の境内にありながら、本坊とは独立して運営されています。この不動堂に行くには鹿苑寺の黒門を入ってすぐ右の石段を登るとすぐ右側にあって、入場料を支払わなくても行くことができます。ここに安置されている石の不動尊は、鹿苑寺が出来てからのものではなく、西園寺からの遺像といわれています。このため不動堂は西園寺公経が造営した北山殿の面影を残す、唯一の建築物と言われています。しかし屋根の両端が跳ね上がったような勾配を見ていると、金閣(舎利殿)の屋根とよく似ていて、建物の設計者は同じなのではないかと思ってしまいます。

庭の手入れも行き届いている。
出来れば紅葉の季節に行きたい。

金閣寺庭園出口から出て、改めて振り返ると、黒門から総門までの両側には、山茶花や楓などが植栽されていて、綺麗に手入れされています。舎利殿の他もよく整備されていて、さすがは京都でも第一の観光スポットでお金があるなあ、と感心しました。

金閣寺へのアクセス

〒603-8361  京都市北区金閣寺町1番地

TEL (075)461-0013

京都市バス「金閣寺前」下車徒歩すぐ。

拝観時間  9:00-17:00

拝観料  400円、  小・中学生  300円(方丈は1000円)

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://www.shokoku-ji.jp/k_about.html

参考文献  : 森浩一著 : 京都の歴史を足元からさぐる 北野・紫野・洛中の巻 : 学生社刊

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