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衣笠は京都市北西部に位置し、衣笠山麓一帯を指します。ここには金閣寺や龍安寺などの名勝が多数位置しています。平安京の時代には貴族の別荘地が多数あったところで、それらの別荘が後に寺院に生まれ変わりました。現在でもこの地域は京都でも高級住宅街の一つに数えられています。

        衣笠の歴史

「きぬかけの路」石碑金閣寺から御室方面にいたる道のりは「きぬかけの路」と呼ばれている。

この地域は古くは、葛野郡上林郷に属し、大伴氏の支族伴林氏一族の居住の地とされています。先に書いた平安貴族の別荘地が多数あった理由は、京都の南部が湿潤な土地であるのに対し、衣笠を中心とした一帯は土地が小高く水捌けが良かったため、居住するのに適していたからです。また、現在の金閣寺から大徳寺にかけての一帯は、貴族が行楽や狩猟を楽しんだ土地で、平安京に於いては洛外とされていました。紀貫之は北山のもみじ狩りにさそわれて

見る人もなくて散ぬる奥山の紅葉はよるの錦なりけり

と歌いました。この様に古来風光明媚な地でしたが、別の側面がありました。その側面が衣笠の地名と関係しています。地名の由来として、宇多法皇が真夏に雪見を所望し、山に素絹を掛けて雪山に見立てた伝説から、衣笠山とも絹掛山ともいわれていますが、これは後世に付けられた綺麗すぎる由来です。京都の北西部の蓮台野は、東部の鳥部野と同じく、葬送の地でした。平安時代初期は、千本から北方は大内裏の背後にあたり、清浄の禁野と定められたところですが、朝威の衰えよって禁制がくずれ、遂には葬送の地となってしまいました。これか蓮台野墓地であって、千本通は御所とその墓地への往還路にあたります。千本通りの由来は、日蔵上人が天歴4年(941年)に、死者の弔いをするために、船岡山に千本の卒都婆を立て、卒都婆を立てたところが蓮台野で、その通りに当るので千本通りといわれています。このように、洛中で亡くなった人は、貴族などの上流階級の人を除けば、洛外の葬送の地に葬られるのが当たり前のようになっていました。そして遺骸を覆い隠すのに覆う布棉が絹掛や衣笠で、当時は遺骸をそのまま、又は藁・衣類・棺などで覆うて放置する風葬が行われました。その遺制が山の名としての衣笠山であり、その地域名の衣笠になって残ったものと思われます。衣笠山中山麓一帯が葬送地であったことは、円融天皇以下歴代の天皇を埋葬し、又は火葬したことや、鎌倉時代には如大禅尼が師無学祖元の塔所を造営し、室町時代には足利氏がその累代の廟所を造営したことからも伺えます。

衣笠山

衣笠山はなだらかな山。

藤原道長は寛弘2年(1005年)衣笠山で御霊会を催し、憤死した人の怨霊を恐れて祀ったことがあります。この怨霊を祀ったのが衣笠岳御霊社で、のちに六所明神と呼ばれるようになりました。六所とはムショともよみ、墓所がなまったもので、現在等持院の東にある六請神社はその後身と言われています。時代が少し下り、鎌倉時代になると貴族が山荘を営んだりします。内大臣藤原家良が衣笠殿を造り、西園寺公経が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいました。室町時代になると、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、山荘を設けました。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれました。現在の鹿苑寺、金閣です。またこのあたりは香隆寺をはじめ、多くのの寺院が造営されましたが、南北朝の動乱や、応仁の乱でその多くは廃亡し、近世にはわずかに耕者が部落をなす状態でした。大北山・小北山・松原・等持院・北野・大将軍の六ケ村で、これらは明治22年4月に合併して衣笠村となりました。大正7年には京都市に編入され、今は住宅地となりました。立命館大学や堂本印象美術館などもあり、平安時代に葬送の地であった面影を残すものは何もありません。

  
  衣笠の散策
立命館大学衣笠キャンパス

立命館大学衣笠キャンパスは、周囲の景色になじんでいる。

衣笠が指し示す範囲は広く、観光する施設は多岐にわたります。東から順に巡っていきましょう。この地域最大の観光地は何と言っても、鹿苑寺・金閣です。先に書いた通り、西園寺公経が営んだ西園寺を、後に足利義満が河内国の領地と交換に譲り受けたのを山荘にしたのが、鹿苑寺・金閣です。詳しい内容は「金閣寺」を見て下さい。金閣寺は京都の数ある観光地の中で、トップクラスの知名度を誇っています。その為、シーズンにかかわらずいつでも観光客が多く、観光シーズンには朝一番に訪れても、既に混雑しています。金閣寺は金色に輝く舎利殿だけでなく、庭園や茶室なども一見の価値があり、混雑を恐れずに訪れてはいかがでしょうか。金閣寺を南西に向かうと、堂本印象美術館があります。堂本印象は本名、堂本三之助といい、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学して、日本画を勉強した後、大正8年(1919年)に、帝展初出展作「深草」が入選したのを皮切りに、活躍します。戦後は抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げました。印象が描いた抽象絵画同様、美術館の外観は非常にユニークで、言葉で表現しにくい感情が湧き起こります。しかし内部は美術館として非常にオーソドックスで、落ち着いた雰囲気で鑑賞出来ます。

堂本印象美術館

堂本印象美術館は、特異な外観。

堂本印象美術館の前にあるのが、立命館大学衣笠キャンパスです。立命館大学は、西園寺公望が創設した私塾立命館を始まりとした、京都の名門私立大学です。私塾立命館は、京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖されましたが、西園寺の秘書官であった中川小十郎は、西園寺の意志を継ぎ、1900年(明治33年)に夜間学校として京都法政学校を設立しました。1913年(大正2年)に財団法人立命館を設立し、「私立立命館大学」に改称しました。初代館長に、西園寺の秘書官であった中川小十郎が就任しました。衣笠キャンパスは、1939年(昭和14年)に、愛新覚羅溥儀の寄付金のうち、20万円で衣笠に約6万坪の土地を購入して、立命館高等工科学校を立命館日満高等工科学校に改組し、現在の衣笠キャンパスに開校したのが始まりです。現在の衣笠キャンパスには、法学部、文学部、産業社会学部、国際関係学部、政策科学部、映像学部があり、多数の学生が修学しています。衣笠キャンパスから北へ10分程度歩いたところに、西園寺記念館があります。当初は国際関係学部の基本棟として使用されていましたが、現在は衣笠セミナーハウスとして使用されています。記念館の名称は、学祖として敬仰されている西園寺公望からとられています。西園寺記念館は金閣寺からほど近いところにあり、金閣寺は元仁元年(1224年)に藤原公経が「西園寺」を建立した場所にあたり、寺は西園寺家の家名の由来となっています。余程衣笠の地は、西園寺とゆかりが深いのかもしれません。立命館大学衣笠キャンパスから、嵯峨野に抜ける道は、京都市道183号衣笠宇多野線ですが、通称は「きぬかけの路」と呼ばれています。これは地元の有志が、平成三年に通りの名称を一般公募した中から付けられました。衣笠キャンパスを西に向かい、龍安寺を超えたところに、それを記念した石碑が設けられています。その石碑には、「平成三年、金閣寺から御室方面にいたる道のりに公募によって名付けられたきぬかけの路との愛称は、その昔、宇多天皇が真夏の衣笠山に白絹を掛けて雪景色を楽しんだとの故事から衣笠山はきぬかけ山とも呼ばれることに由来する。自然が織りなす四季折々の風情を楽しみながら一歩、一歩この路を散策していただきたい。」とあり、最後に有志の団体名として「きぬかけの路推進協議会」とあります。この推進協議会が主張する衣笠の由来は、当Siteが説明するものとは違いますが、当Siteはそれを否定するわけではありません。

衣笠へのアクセス

京都市バス「立命館大学前」周辺

周辺の観光・宿泊

観光地: 金閣寺 龍安寺 妙心寺 等持院 平野神社

宿泊施設: 嵐山辨慶 宿らんざん ホテル嵐亭 高雄もみぢ家本館