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西山浄土宗の総本山。秋には見事な紅葉で、多くの観光客が訪れます。

 光明寺の歴史

光明寺

紅葉シーズンは多くの観光客で賑わう

法然は15歳の時(異説には13歳)に比叡山の皇円について得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗ります。法然が24歳のときに叡山を降りられたとき、粟生野の里で当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。その時、茂右衛門夫婦は、法然の強い仏法への気持ちと、民衆を救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いします。建永9年(1198年)、「平家物語」で有名な武将熊谷直実が戦いの明け暮れから、積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」との教えに歓喜し、直ちにお弟子となり剃髪しました。蓮生房と称し、法然が43歳の時に初めて念仏の教えを説いたとされる西谷粟生に庵を結びました。その時、法然を開山第1世として『念仏三昧院』を建立したのが光明寺の起こりです。なお茂右衛門の屋敷跡とされる立て札が、光明寺内にあります。

勝持寺山門

第三世幸阿上人の時、建暦2年(1212年)正月25日、法然は逝去しました。嘉禄3年(1227年)に東山吉水付近に埋葬された墓を暴きに来るという叡山の衆徒から護るために、遺骸を嵯峨の二尊院、ついで太秦の西光院へと移します。すると遺骸を入れた石棺から幾筋かの光明が放たれ、西南方向の粟生の地を照らしたことから、この地で茶毘に付し、遺骨を裏山に納め廟堂を建立したと伝えられます。以来、この粟生の念仏三昧院は、光明寺と称されるようになりました。室町末に顕空登順が再興するが兵火に遭って焼亡、現在の諸堂は江戸時代に整備されたものです。

山門はさほど大きくなく、威圧感がない。

  光明寺の散策

御影堂の横には法然上人の像がある。

勝持寺仁王門寺の正面玄関である総門は東面していて、有名寺院にしてはやや小振りで、厳めしい感じを受けません。この門は「高麗門」という形式で、天保十六年(1845)に建てられました。門を潜ると眼前に広がるのは長い石畳の階段です。この坂は通称『女人坂』と呼ばれ、傾斜が緩やかで、女性でもお年寄りでも楽に登れるように配慮されている寺の表参道になります。ここではときどき時代劇のロケの撮影が行われたりしています。また左手の道は秋になると鮮やかな紅葉のトンネルになる通称『紅葉参道』は、紅葉のシーズンになると必ずどこかのテレビ局が中継に来るほど、素晴らしい眺めになります。表参道を進み見えてくる御影堂は応仁の乱をはじめ、何度も火災にあって元の建物は残っていません。現在のものは宝暦3年(1753年)に再建されました。総欅造の堂内には法然上人自作という「張子の御影」が祀られています。回廊によって続く阿弥陀堂は、寛政11年(1799年)に再建されたこれも総欅造の御堂で、本尊の阿弥陀如来像は熊谷蓮生が琵琶湖畔の堅田にある浮御堂から背負って来たといういい伝えが残ります。

勝持寺不動堂御影堂の南下へ連なる釈迦堂は元文6年(1741年)に建立され、頬に焼け火箸で焼かれた傷跡が残るという煩焼如来と呼ばれる釈迦如来立像を安置する。その前には白砂と石組で生死の大海を渡る念仏行者の姿を現した信楽庭がある。御影堂の右手前には石の柵に囲まれて大きな石棺があり、柵の前の碑には「圓光大師御石棺」と刻まれています。圓光大師とは法然の大師号で、法然が亡くなって約500年の後、東山天皇から贈られたものです。石棺は、どっしりとした形で、やや丸みをおびた重い石蓋で覆われています。以前は拝観料は無料だったのですが、2004年から紅葉シーズンのみ有料になりました。この時期は臨時の駐車場が設けられますが、それでもお昼前後に車で訪れると、駐車待ちの長い行列が出来ます。近くに有料の駐車場は無いので、秋の観光シーズンは公共の交通機関を利用された方がいいようです。

仏殿も威圧感が無く、穏やかな感じ 。

光明寺へのアクセス

〒617-0811  京都府長岡京市粟生西条内26-1

TEL(075) 955-0002

JR長岡京駅・阪急長岡天神駅~阪急バス/光明寺下車

専用駐車場無料

ホームページ  : http://www.komyo-ji.or.jp

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