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広隆寺 南大門 南大門には一対の仁王像があるが、大通りに面しているので、痛みが激しい。

広隆寺は、真言宗御室派の寺院で、山号は蜂岡山です。蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院です。近くには太秦映画村があり、京福電鉄の駅が目の前にあるので、比較的交通の便がいいです。また、日本で最初に国宝(彫刻の部)に指定された宝冠弥勒菩薩半跏思惟像があります。あまり知られていませんが、平安時代には現在の南大門あたりに桧皮茸の三重塔がありました。

 広隆寺の歴史

広隆寺 南大門心礎礎石の心礎はかなりの大きさがある

京都にある有名社寺で、広隆寺のように寺の草創が確定していない寺院は珍しいです。『日本書紀』に広隆寺草創に関わる記述があり、発掘調査の結果からも草創が7世紀にさかのぼる古寺であることは確かですが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではありません。『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私は尊い仏像を持っている。誰か祀る者はいないか」と諸臣に尋ねたところ、秦河勝が進み出て、仏像を戴き、蜂岡寺(広隆寺の古称)を造ったとされています。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとあります。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがあります。これについては、寺は 603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた『蜂岡寺』と622年に建てられた『広隆寺』という別々の寺院が後に合併したとする解釈があるようです。しかし広隆寺の前身は蜂岡寺であったとしているのが、今日の定説です。

広隆寺 講堂講堂は柱が赤く塗られているので、『赤堂』ともいわれている。

弘仁9年(818年)の火災をはじめ、たびたび災害に見まわれており、創建当時の建物は残っていません。弘仁9年(818年)に火災で焼失したあと承和14年(847年)に再建され、そのときの本尊が薬師如来立像だったことが、寛平年間の『広隆寺資財交替実録帳』に記載されています。この薬師如来が安置されると「東西京の貴賤、挙首して広隆寺に参る。人いう。寅年五月庚寅の日、薬師如来をこの堂に安置し奉るが故なり」というほど人気が集りました。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、中興の祖とされています。

広隆寺 本堂本堂の外観は色々と“飾り付け”がある。

道昌については伝説があり、聖徳太子伝の集大成である『聖徳太子伝暦』によると、推古天皇十二年の秋に太子が、大和国いかるがの宮で秦河勝にこう話しました。「吾前夜不思議なら夢を見た。この地から北五六里余りの一つの美邑に遊んだ。楓林がおいしげり、その香が芽々として、その林中に大きな桂の朽木があり、五首の羅漢が集まり般若理趣分を読ようすると、虚空より天人が飛来して妙香炒華をもってその羅漢に供養した、その朽木から光明を放って微妙な声を出し妙法を説いた、まことに殊勝な土地である。この林の中に汝(河勝)等の親族達が懇ろにもてなしてくれた。」秦河勝はこう返答しました。「臣の住む葛野とも夢は同じです。」太子はこの地を見を見たいと命じ、その夜泉河の畔に宿泊しました。太子が近臣にこう言いました。「吾死後二百五十年に一聖僧出て寺を建て道を弘の大に仏法を興す。この僧は他人に非ず吾後身なり。」この二百五十年後の僧が道昌に当たるとされているのです。

広隆寺 本堂本堂の西面に掲げられている大きな鉋。これ以外にも、本堂には色々なものが、掲げられている。

その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼しましたが、比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われています。現存する講堂(重文)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられています。その後室町末期には、織田信長は寺領を安堵し、天正5年(1577年)に朱印状を渡して、諸役免除ならびに安養寺村の寄進を申出しています。秀吉は散在する寺領を整理して、太秦の内において六百石を寄進していました。これをもって広隆寺が太秦において六百石を領する起源となりました。

  広隆寺の散策
広隆寺 本堂

広隆寺の本堂正面には「大悲救世」と「以和為貴」の扁額がある。

京福電鉄嵐山線の太秦広隆寺駅を降りると、三条通に面して南大門があります。この門の左右に収まっている仁王像は、永万元年以降の物と考えられます。大きな通りに面して立っているせいか、少し傷みが目立ちます。門の右側に明治35年(1902年)に建てられた「太秦広隆寺」と大書した石標があります。この石碑は長径2.4メートル、短径約2メートルの大きな台石に据えられていて、この石は塔の心礎を転用しています。これは何故かというと、平安時代の広隆寺には桧皮茸の三重塔の別院があったのです。南大門を通り抜けると、左手には薬師堂があります。薬師堂には広隆寺由来記が掲げてあり、これには薬師堂に納められている薬師如来の由来がかかれています。ここに書かれている薬師如来は、聖徳太子が秦河勝に授けた如来とは違う薬師仏で、仏像そのものも霊宝殿ではなく、薬師堂に納められていて、11月22日のお火焚きの日にご開帳されます。薬師堂を北に進むと講堂があります。この建物は、柱が赤く塗られているので、『赤堂』ともいわれ、本尊は阿弥陀如来坐像です。永万元年(1165年)に再建されたもので、京都では醍醐寺の五重塔に次ぐ古さです。さらに進むと享保15年(1730年)に再建された本堂があり、今日では聖徳太子像を本尊とし、そのため上宮王院太子殿とよばれています。本堂正面の頭上の扁額には「大悲救世(不信の者をも救う観世音菩薩、聖徳太子を指す)」があり、その奥にも「以和為貴(和を以て貴しと為す、太子の有名な言葉)」の扁額があります。先に書いたように本堂は薬師如来が本尊でしたが、太子信仰が高まるにつれて、太子自身が本尊になりました。この太子像は33歳の頃と伝えられて、像には歴代天皇が即位大礼の際に着用した黄櫨染の袍を即位されたのちに寄進されて、各天皇一代を通じて着用しています。太子殿には様々な扁額の他に、風変わりな物も掲げられています。中には大きな鉋が据え付けられたりしています。

広隆寺 薬師堂薬師堂内に納められている薬師如来はお火焚きの日に開帳される。

本堂の前には広隆寺の由来が書かれた、石碑があります。これには「広隆寺は推古天皇11年(603年)聖徳太子が******秦河勝に尊像を授けて創建せられた山城国最古の寺で太子建立日本七大寺の一つである。日本書紀の推古天皇十一年の条に『十一年十一月己亥朔、皇太子謂二諸大夫曰、我有尊彿像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進曰臣拝之。便受佛像因造峰岡寺。』とあり創建当時は蜂岡寺と号し当寺の造営は実に十九年間を費やして推古天皇三十年堂塔伽藍完成し河勝が太子より賜った仏像現今の弥勒半蜘思惟像であることは広隆寺交替実録帳によりあきらかであり、聖徳太子の御理念の象徴とて遠く創立の由緒を伝えている。(以下略)」と書かれています。始めの部分にアスターリスクがありますが、これは石碑が作られたときには、「秦始皇帝の子孫」と彫られていましたが、秦氏を新羅の出身とする学説を支持する人が、寺に押しかけ抗議をした結果、その部分を削り取り、薄い石を嵌めて削除しました。本堂を北に進むと拝観受付があり、拝観料を支払って進むと、霊宝殿があります。霊宝殿には宝冠弥勒半伽思惟像など、国宝や重要文化財が数多く収蔵されています。広隆寺は何度か火災に見舞われているので、こうした貴重な仏像が現存しているのも奇跡的とも言えます。特に宝冠弥勒半伽思惟像は、日本の仏教伝来に関する貴重な仏像で、彫刻として国宝第一号に認定されたのも頷けます。霊宝殿はこうした貴重な宝物が間近に見られる重要な施設と思う反面、仏像は本来、本堂などに納められるべき、との思いもぬぐい切れません。

広隆寺は平安京が出来る前から京都にある寺院で、冒頭で記述したように、寺の草創が確定していない寺院は珍しいといえます。しかし広隆寺で働いている職員の方々はその事を誇りに思われているようで、何かを問いかけても直ぐに返事があり、境内も非常に綺麗にされていました。往時は寺域の非常に広い寺院でしたが、現在ではかなり狭くなっています。しかし、そこで働いている人たちの心は非常に広く感じられました。

広隆寺へのアクセス

〒616-8162  京都市右京区太秦蜂岡町32

TEL  (075)861-1461

京福電鉄太秦広隆寺駅下車徒歩約1分

駐車場  : 専用駐車場があります。

拝観時間  9:00~17:00

拝観料金(霊宝殿の参拝料)  : 大人・大学生700円  高校生500円  小中学生400円

公式ホームページはありません。

広隆寺周辺の観光

観光地: 嵐山 天龍寺 妙心寺 等持院

宿泊施設: 嵐山辨慶 宿らんざん ホテル嵐亭 高雄もみぢ家本館

お食事処: 韓風食房 うふふ ブラッスリーせき 佐近