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鞍馬寺奥の院

この写真の祠の奥に奥の院の堂宇がある。

鞍馬寺の宗派はもと天台宗に属しましたが、昭和24年(1949年)以降独立して鞍馬弘教総本山となっています。山号は鞍馬山。開基は、社伝では鑑真の高弟、鑑禎とされてますが、藤原伊勢人の説があります。本尊は寺では「尊天」と称しています。「尊天」とは、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊です。鞍馬寺は京都の北東部に位置し、「枕草子」や「源氏物語」に登場し、源義経が塔頭東光坊で、逓耶王の名で修行時代を送り、鞍馬山の奥深い僧正ケ谷で武芸を麿いたことでも知られています。鞍馬の産土神の由岐神社は、鞍馬の火祭でも知られ、京都の三大奇祭の一つに数えられています。

 鞍馬寺の歴史

鞍馬寺の草創については、『今昔物語集』のなかで、造東寺長官を務めた藤原伊勢人が当初千手観音を安置して私寺を創建しようとしていました。ある夜、伊勢人が夢を見た。その夢とは平安京の北の深山があり、その山は二つに分かれていて、中間より水が流れていた。すると近くにいた翁が伊勢人に「おまえはこの地を知っているか。」尋ねた。伊勢人が、知らない、と言うと翁は、「私はこの山の鎮守の貴布祢ノ明神である。ここは霊験のある山で、優れた山である。北には衣笠山があり、前には松尾山があり、西には加茂川がある。」と言うと翁は立ち去りました。伊勢人は乗っている白馬に、仏教が天竺から中国に伝えられる時、教典を白馬が背をってきたことを言い含めて放しました。馬の後を追って行くと北に向かいました。すると萱の中に白檀の毘沙門天が立っていました。伊勢人は観音像を祀ろうとしていたのに、現れたのは毘沙門天なので戸惑っていました。そして又夢を見て童子が出てきました。童子は「私は多聞天の従者の禅貳師童子である。なぜ疑うのだ。観音は毘沙門天なのだ。これは般若心経と法華経と同じような関係だ。」そう言うと夢は覚めました。それから伊勢人は毘沙門天を安置したお堂を建立しました。これが今の鞍馬寺になります。鞍馬寺と毘沙門天との関係は中国の伝承に目を向けなければなりません。唐の高僧、不空(705~774)は、西蕃・大石・康の三国が西安を囲んだとき、玄宗皇帝に招かれて、香炉を持って仁王密語を二十七遍唱えると、毘沙門天が500人現れ西安を救い、皇帝は不空に感謝をして諸道に命じ城楼に毘沙門天像を置かせました。このことが日本に伝わり、伊勢人が鞍馬寺を平安京の北の出入り口に、毘沙門天像を置く事を思いついたと思われます。

鞍馬寺山門

石段下から仁王門を見るとこの寺の厳しさが想像される。

しかし社伝では別の草創縁起を伝えており、鑑真の高弟鑑禎が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりとしています。鑑禎は、鑑真が唐から伴ってきた高弟のうちの最年少でした。宝亀3年(772年)のある夜、鑑禎は霊夢を見て、山代の国の北方に霊山があると告げられます。鑑禎は北に向いて歩いていき、ある山の上方に鞍に宝を乗せた白馬を見つけます。その山が鞍馬山でした。山に入った鑑禎は般若に襲われそうになりますが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙門天の像があったので、鑑禎はこれを祀る一寺を建立したという。9世紀末の寛平年間(889年 - 897年)東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺したころから、鞍馬寺は真言宗寺院となりますが、12世紀には天台宗に改宗し、以後の鞍馬寺は長く青蓮院の支配下にありました。寛治5年(1091年)には白河上皇が参詣、承徳3年(1099年)には関白藤原師通が参詣するなど、平安時代後期には広く信仰を集めていたようです。『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げています。

鞍馬寺本堂鞍馬寺は大治元年(1126年)の火災をはじめとして、たびたび焼失しています。江戸時代の文化9年(1812年)には一山炎上する大火災があり、近代に入って1945年(昭和20年)にも本殿などが焼失してまする。このため、堂宇はいずれも新しいものですが、仏像などの文化財は豊富に伝えられています。昭和期の住職・信楽香雲は、1947年に鞍馬弘教を開宗。1949年には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっています。京都の奥にある鞍馬山は山岳信仰、山伏による密教も盛んでした。そのため山の精霊である天狗もまた鞍馬に住むと言われています。鞍馬に住む大天狗は僧正坊と呼ばれる最高位のものであり、また鞍馬山は天狗にとって最高位の山のひとつであるとされています。

本殿は近代的な建物。

  鞍馬寺の散策

正ガ谷不動堂の周囲はよく清められている。

鞍馬寺僧正ガ谷不動堂鞍馬寺の正面玄関になる仁王門の前に立つと、その大きさに圧倒されます。鞍馬街道に立っているときには、そんなに大きく感じませんが、石段を登っていくと次第に大きく感じるようになり、眼前にしたときには暫し立ち止まって見入ってしまいます。仁王門は1911年(明治44年)再建された入母屋造檜皮葺で、拝観受付にもなっています。仁王門を過ぎ、左手をまっすぐ歩くと、『枕草子』に「近うて遠きもの」の例として書かれた九十九折坂が蛇行しながら続くきます。この坂は鞍馬寺中腹の金堂まで続きますが、体力に自身のない方は、仁王門眼前からケーブルカーが出ています。ケーブルカーの乗車料金は片道100円で、急な坂を一気に登ってくれます。ケーブルカーを降りて少し山道を歩くと、本殿があります。本殿は1945年(昭和20年)に焼失し、再建された建物で、屋根は銅葺きの近代的な建物になっています。仁王門やこの後述べる奥の院がかなり侘びた雰囲気があるのに比べて、この本堂が持っている雰囲気には、少し違和感がありました。本堂には三尊尊天を安置しています。本堂左脇の道を登っていくと、奥の院に通じる山道になります。この道の途中には、与謝野鉄幹・晶子夫妻に縁のあるモニュメントがあります。その一つは夫妻の歌碑があり、もう一つは東京での書斎(冬柏亭)が移築されています。書斎は質素ですが、きれいに保存されていて、当時の二人の暮らしぶりが伺えました。

義経堂はこじんまりとしたお堂。

鞍馬寺義経堂この後は山岳信仰の寺院らしく、険しい山道が続きます。その途中には源義経にまつわる遺跡があります。まず最初に出会うのは、息継ぎの水で、これは義経が牛若丸と呼ばれていた頃、奥の院に兵法の修行に通う途中、ここで水を飲んで喉の癒しを潤したと言われています。次に出会うのは背比べ石で、これは義経が奥州に下るときに、別れを惜しんで背を比べた石と言われています。石そのものはさほど大きな石ではなく、義経もどちらかというと小柄な体格だったように言われているので、この石と背を比べたと言われると何となく納得します。ここから再び歩いて少しすると、僧正ガ谷不動堂があります。堂内には最澄が刻んだと伝えられる不動明王が安置されていますが、一般参拝者は見ることはできません。またここは義経と天狗が出会ったところと言われています。堂はさほど大きくなく、森閑とした杉林の中にあり、市中で見られる他の寺院とは、また違った独特の雰囲気があります。再び奥へと歩き出して、暫くすると奥の院があります。奥の院は正式には魔王殿と呼ばれ、護法魔王尊が安置されています。奥の院は想像していたよりも小さな堂宇で、柵が設けてあり、近づくことはできません。しかしながら鞍馬の山奥に、このような堂宇を設けた信者の信仰心の厚さに、感動をしました。

現在では鞍馬寺に参詣するのに、仁王門の麓まで車や電車で簡単に行くことができて、しかもその先にはケーブルカーもあります。しかし車やケーブルカーが無かった時代にここに参詣をして、なおかつ厳しい山道を踏破するのは簡単なことではなかったと思います。それだけに天狗伝説が残る山中に堂宇を建設する人たちの思いに頭が下がります。

鞍馬寺へのアクセス

〒601-1111  京都市左京区鞍馬本町1074

TEL (075)741-2003

叡山電車 鞍馬下車 徒歩約5分

拝観時間  9:00-16:30

拝観料  高校生以上  200円、中学生以下  無料

駐車場  なし  山麓仁王門近くに民営駐車場あり(500円前後)

公式ホームページはありません

参考文献  : 森浩一著 : 京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻 : 学生社刊

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