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新京極は寺町通と河原町通りこのあいだにあって、北は三条通より南は四条通に至る南北500メートルにおよぷ繁華街で、秋の観光シーズンには多くの修学旅行生でごった返します。通りの両側には、びっしりと店が建ち並び、アーケードに覆われていて、雨に濡れる心配もありません。どこかで店が閉店になっても、すぐに違う店舗が開店して、日本各地の商店街が悩まされている「シャッター通り」とも無縁です。ここは日本で一番人通りの多い商店街かもしれません。

 新京極の歴史

四条通りから入った所にある立て札。簡単な由緒が書いてある。

新京極 由緒

新京極は平安京が出来たときには東京極大路と呼ばれて、中川を隔てて鴨川をのぞむ荒涼の地でしたが、天正年間に豊臣秀吉が都の都市改造にあたって市中に散在する寺院をここに集め、壮大な寺院街としたことから寺町通の名が起きました(寺町を参照)。それが幕末の1864年(元治元年)の兵火によって寺町も焼失し、また市中の大半も焼失して京都は無惨な状況になりました。次いで明治天皇の東京遷都があって、市民は精神的にも非常な打撃をうけました。そこで1872年(明治5年)に府参事槇村正直(後の京都知事)は意気消沈した民心を活気づけるために、娯楽街をつくることを思い立ち、誓願寺や金蓮寺の境内に参詣人目あての見世物小屋などがあるのに目をつけ、境内の一部を残して大半を上知没収し、墓地の整理を行い、各寺院の境界となつている土塀をとりはらい、三条から四条に至るあいだに新らしい道路を開設しました。

新京極 誓願寺

誓願寺では何とかして人に入ってもらう努力をしている。

また土地は坪当たり五十銭、武士なら半値の二十五銭で払下げましたが、しかし当時は白骨が出て気味悪るがり、容易に買手が付きませんでした。この辺りは室町期までは庶民の葬送の地であったので、それも致し方のないことですが。思案した槇村参事は、その頃、香具師のボスといわれた阪東文治郎に相談し、土地を無償でつかわせることで、全国から多くの大道芸人や香具師を集めます。そして寺町の古名である京極にちなんで新京極と名づけ、ここに一大娯楽街が出来ました。しかし、娯楽街といっても、今日のようなものではありませんでした。そこに出来たのは、およそ猥雑の一語につきるもので、手なし娘の足芸とか、ろくろ首の曲芸、居合抜きを看板にした歯薬屋、源水直伝のこま廻し、軍談読み、綱渡り等でした。ことにひどかったのは、若い女が親にもみせないところへ生きた蛇を入れたり、猥雑な見世物があって、庶民の興味をそそりました。

新京極 和泉式部寺

和泉式部の供養塔は大きい。

またそのあいだには多くの飲食店や揚弓場等を設けたので、昨日の墓地は一夜にして繁華街となり、見物人で雑踏をきわめました。特に明治二十六・七年頃、壮士俳優川上音二郎によるオツペケペ節、山崎琴書の戦争講談および並川栄慶のチョンガレ(浪曲)が人気をあつめ、新京極を隆盛に導きました。活動写真(映画)がはじめてあらわれたのは明治三十年頃といわれ電気館(四条通りの少し北)で上映されたという。それは風景を写した他愛も無いものでしたが、珍らしさに客が殺到しました。まもなくフイルムと実演をかみ合した活動写真連鎖劇が人気をよび、大正初期には常設芝居小屋や寄席を圧倒して、大衆娯楽の王座になります。第二次大戦後、ストリップ劇場やパチンコ店が出現し、娯楽施設の内容も変わっていきます。娯楽街としての新京極は、また飲食店をはじめ、多くの小売店によって推進されてきました。むかしは誓願寺前の小料理屋「於多福」、四条道場の「丹金」の善哉、精進料理の「花遊軒」などが特に有名でしたが、いずれも今はありません。新京極に別段以来いまに至るも営業をつづけているのは、趣好品の「さくら井屋」外数軒にすぎないといわれています。近年は買物と飲食街としての河原町や木屋町の繁栄、それに四条通のデパート群に押されて、かつての活気はありません。しかし、今なお130余軒の小売店が櫛比し、今日では映画館、ボーリング場、ゲームセンターなど様々な業態の店舗があり、新京極の娯楽賑わいが途絶えることはありません。

新京極の散策

この坂がお土居の跡であると知っている人は少ない。

新京極 たらたら坂新京極を南から歩いてみましょう。まず最初に目に付くのは、ロンドン焼きを製造販売しているお店です。このお店の正式名称はその名もロンドンヤで、ここの名物ロンドン焼きは店頭で製造販売されていて、その情景はガラス越しに見ることができ、開業当初はその風景の物珍しさから休日には誇張ではなく、黒山の人だかりでした。白いあん入りの一口サイズのカステラまんじゅうで、ほどよい甘さで固定客の方が大勢います。その北隣には、すしの音羽があります。ここで有名なすしは蒸し寿司でときどきテレビのグルメ番組でも紹介され、それを目当てに来られるお客さんがいます。特に冬場は暖かそうな蒸籠の蒸気に引きつけられて、店内に入って行かれる方がいます。

錦天満宮はいつも賑わっている。

新京極 錦天満宮ここの少し北に、錦天満宮があります。全国にある天満宮の一つで、祭神は菅原道真公で、創建は1003年(長保5年)に菅原是善の旧邸菅原院を六条河原院へ移し歓喜寺とし、その鎮守社として天満天神を祀ったのが始まりとされています。歓喜寺は1299年(正安元年)に善導寺と併合して歓喜光寺と改名しました。その後、歓喜光寺は天正13年に、豊臣秀吉の都市改造で錦小路東端 の現在地に移転し、通り名から「錦天満宮」と呼ばれるようになりました。しかし、明治時代の神仏分離令で歓喜光寺のみが、山科区大宅奥山田へ再移転しています。この天満宮でユニークなのが鳥居で、天満宮は新京極の東側にあるのですが、鳥居は通りを隔てた少し西にあり、その鳥居の一部が商業ビルの二階部分に食い込んでいて、テナントの一室に入っているのです。このビルを建築したときに、どのようにして鳥居を壊さずに工事をしていったのか、不思議に思います。そこから少し北に歩き、蛸薬師通りに行くと蛸薬師堂こと永福寺があります。寺伝によると、堂内に安置する本尊石造薬師如来は、かつては室町二条南に永福寺があった頃からの本尊でした。その頃に善光という親孝行な僧がいましたが、あるとき病身の母親の求めに応じてタコを買い求めましたが、仏門の身で生魚を持っていたのを怪しんだ人たちが善光を取り押さえようとしました。進退窮まった善光は、本尊の薬師如来を念じながらタコを入れている蓋を開けてみると、薬師に変わっていて、母親も病が癒えました。世の人たちはこの霊験談から、この薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになりました。他にも蛸薬師と呼ばれるようになった説は、幾つかあるようです。永福寺が室町二条からこの地に移ったのは、天正15年の豊臣秀吉の都の再編事業で、寺町通りに都の寺院を集めたのがきっかけです。それからは四条坊門小路を蛸薬師通りと呼ばれるようになりました。

蛸薬師とは何ともユニークな名称。

新京極 蛸薬師そこから少し北には、華岳山誠心院があります。この寺の俗称は、和泉式部寺と呼ばれる真言宗泉涌寺派の寺で、本尊は阿弥陀如来を安置しています。和泉式部は平安時代に活躍した歌人で、歌もさることながら奔放な性格から親王と浮き名を流したことで有名です。これらのことは当寺を訪れると、詳しく書いてあります。寺内には和泉式部塔があり、塔の前で記念写真を撮っている観光客がよく見かけます。また北に歩くと、少し広場になっているところに、誓願寺があります。この寺は浄土宗西山深草派の総本山で、天智天皇の勅願所として奈良に出来ました。その後伏見深草に転じ、平安遷都にあたって浄土宗になりました。この地に移ったのは1585年(天正13年)で、このときは塔頭子院十八宇を有する大寺でしたが天明以降の火災で衰微して、新京極が出来たことで寺域が縮小されました。今では阿弥陀如来を安置する本堂などがあるだけです。新京極の一番北は少し坂になっています。この坂は通称「タラタラ下り」と言われ、わずかな距離が急な坂になっています。これは「お土居」の名残で、寺町から三条大橋までの 400メートルの三条通りは鴨川に通じる道路でした。

新京極のアクセス

〒604-8046  京都市中京区新京極通蛸薬師下る東側町507れんげビル3階

TEL (075) 223-2426 (月~金 10:00~17:00)

上記情報は新京極商店街振興組合の住所及び電話番号です

阪急電鉄「河原町駅」下車 : 徒歩3分

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://www.shinkyogoku.or.jp

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