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壬生は四条通りを中心として、東は壬生川通り、西は西大路通りまでとした広い地域を指します。昔は葛野郡朱雀野村大字壬生とよばれた一閑村で、今の壬生寺周辺を指しましたが、大正7年(1918年)4月、京都市に編入されてからはいまは中京区となっています。京都市の中心部ながら住宅が広がり、マンションや学校などが目立ちます。地上には京福電鉄、地下には阪急電鉄が走り、交通の便が大変良いところです。

    壬生の歴史

壬生川は今では見ることは出来ない。

壬生川標識

京都は古来、右京は湿潤で、壬生や西院は低湿地帯で常に土地がぬかるんでいました。その為人の居住には向きませんでしたが、農作物の栽培には適していました。京野菜の一つとして有名な壬生菜も、最初は壬生地域で栽培されていました。『壬生寺縁起』に書かれた寺再建の1285年ころの壬生寺周辺の様子は、『土地湿多くして、ややもすれば泥水涌出して礎石をもうくるに堅固ならず。これに依て他所より土壌をはこびて地形をきずく』とあります。「ミブ」という言葉はこの様な土地事情から来ているようです。壬生寺の案内書に『ここが低湿の土地であったために、壬生を水生と解して(五行説で壬は水に属する)、壬生大路の古名を借用したのではないかと考えられる。』とあります。しかし土地の名称は「壬生」という平安時代の大路から付けたのではなく、「ミブ」という言葉が先にあったと思われます。「ミブ」の「ミ」は「水」で、「ブ」は「ウブ(生)」だとすると、〝水のある低地″ということで、「水生」から「壬生」なったと考えられます。また別の考えとして、この地域は古来から赤土の産地で、家の壁などに用いられていました。後世では、聚楽土とか九条土とか呼ばれるようになりました。その赤土が産出することから「ニブ(丹生)」と呼ばれるようになり、ニブがミブに変化したとも考えられます。

壬生屯所

壬生寺周辺には屯所跡が見学できるところがある。

平安末期に、左大史小槻隆職は太政官の事務を司る官務となり、その子孫は長くこの地に住したので、地名によって壬生官務家と称しました。歌人藤原家隆もこの地にあって歌集「壬生集」を著し、また三十六歌仙の一人に数えられたた歌人壬生忠苓・忠見父子もこの地に居を構えました。忠苓が生前愛用したという硯が江戸中期に発掘され、いまは壬生寺に秘蔵されています。第二次世界大戦後、染色業者がこの地の豊富な地下水に目をつけ、工場を建設することがありました。しかし今ではかつての低湿地帯の面影はなく、工場は減り、住宅が建ち並び、壬生菜の栽培や赤土を産出している風景を見かけることはありません。

壬生の散策

京福電鉄は住宅街を縫うように走り抜ける。

京福電鉄線路壬生を散策して廻るところは、さほど多くはありません。この地で有名なのは、何といっても壬生寺です。壬生寺は律宗の別格本山で、奈良の唐招提寺に属するところから鑑真和上を開山とします。寺伝によれば平安時代の正暦2年(991年)三井寺の快賢が仏師定朝に一体の地蔵尊を造らせて、これを本尊として安置したのが当寺の起りと伝えられています。壬生寺が有名なのは、幕末に新撰組が壬生界隈に屯所を構えて活躍し、寺にも隊士の墓や記念碑があることや、年に三回催される壬生狂言に人気があることです。壬生界隈には今なお止まない新撰組人気を当て込んだお店があり、多くの観光客を集めています。壬生寺にも隊士の墓があり、有料ですが参拝することが出来ます。壬生狂言は、春の節分・四月末からの10日間・そして秋にも行われる無言劇です。この狂言は白布で頭と顔をつつみ、仮面をつけ、鉦と太鼓を主とし、時には笛をも加えてはやしながら行われます。題目は三十題あり、1.能欒から取材したもの十四種・2.能狂言から取材したもの五種・3.壬生狂言独特とみられるもの十一種に分かれます。各演目は一時間近くあり、一日に五番上演されますが、その第一番には「炮烙割り」が行われます。壬生は住宅街ですが、その間を縫うように走っているのが京福電鉄です。住宅の軒先をかすめるように走る風景は、他の都市に見られる路面電車では見られないと思います。

壬生へのアクセス

阪急電鉄又は京福電鉄「大宮駅」下車 : 徒歩10分

周辺の観光・宿泊

観光地: 二条城 六角堂 錦市場 西院

宿泊施設: 京都東急ホテル 三井ガーデンホテル京都四条
からすま京都ホテル アランヴェールホテル京都 コートホテル京都四条