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物集女は京都の洛西(乙訓)にあり、ここを中心とした地域は、住宅や小規模店舗が多いことろで、観光を目的として訪れる人は余りいません。住宅地なので、朝夕の通勤時間帯は狭い道に多くの車が通りますが、それ以外は落ち着いた雰囲気の地域です。

 物集女の歴史

樫原廃寺跡石碑樫原廃寺跡の石碑の大きさは横1m50cm、縦1mぐらい

この地域の歴史は古く、古代から栄えた土地で、かつては物集女城があったりしました。また葬送の地で、妙見山や長山・芝山などの古墳群があり、淳和天皇の火葬壕があったりします。文徳天皇の御陵である前方後円墳もあります。京都の葬送の地として有名なのが、東山の鳥部野、衣笠の蓮台野などです。しかし鳥部野や蓮台野は、民衆が葬られる場所で、貴族などの上流階級の人々は、廟所を建てたり、天皇は古墳を造営したりしていました。この地が上流階級の埋葬地として選ばれたのは、洛外にあって水捌けがよいことなどが挙げられます。しかし時代が下ると、天皇などは古墳に埋葬されることはなく、泉涌寺などに御陵を設けて、廟所としました。庶民は廟所などに葬られることはなく、相変わらず風葬がほとんどでした。一遍上人絵巻などを見ていても、死人が放置されているのが分かります。

樫原廃寺跡瓦積基壇

樫原廃寺跡の瓦積基壇には自由に出入り出来る

しかし至る所に放置されている訳ではなく、特定の葬送の地に運ばれて風葬にしました。モズメという地名は、この葬送の地であることが関係しています。死者が出ると近親者は近くの葬送の地に運び、死者を弔います。死者の周りで、近親者が死後の世界では安寧であるよう、祈りを上げます。この行為が物集女の語源になっています。この地で死者を祀り、魂を鎮めるために喪に集まり詰めて、葬祭の事に当たるのでモヅメ(喪詰め)となりました。一説には、ここが物集女という地名になったのは、大阪堺市の百舌鳥に分布した土師氏の支族たちが来たからである、というのがありますが、京都の物集女は、『和名抄』には漢字で物集の二字で書き、仮名は毛都米とか毛豆女などと表記しています。従ってモヅメと三音に発音していたと思われます。それに対し、和泉大鳥郡の百舌鳥野は、モヅメではなくてモズと二音に発音していたと思われるので、語源としては別であると考えられます。

  物集女の散策
三ノ宮神社

三ノ宮神社は、表通りから奥まったところにあり、余り目立たない

最初に書いた通り、物集女には観光として訪れる所は余りありませんが、子細に見ていくと所々に余り知られていない史跡などがあります。第一として挙げられるのは、樫原廃寺跡でしょう。現在、公園のようになっている史跡の中心には、七段の階段を持つ、一辺六メートルの八角形の瓦積基壇の塔跡があります。この寺の子細はよく分かっていません。寺名が不詳のため、土地名を冠して樫原廃寺と呼ばれています。この樫原の地は七世紀半ばには葛野郡に属してました。葛野の地は秦氏の勢力下にあったので、この寺院の造営に秦氏が関与した可能性を指摘されています。昭和42年2月から4月にかけて発掘調査され、八角塔などが残っていることから昭和46年3月に国の史跡に指定され、永久に保存されることになりました。その時の発掘調査で、塔跡には、地表から深さ約2mの地下に円形の柱型を掘った心柱の礎石があることが分かりました。また、約35m南に、東西(間口)20m、南北(奥行)約11mの基壇を持つ門と、その左右にそれぞれ幅(南北)5m、長さ(東西)約22mの基壇を持つ回廊が建ち、北へ折れ曲がって南北に65m以上、幅2.4mの基壇を持つ築地塀が建てられていたことが、発掘調査により明らかになっています。

天皇の杜古墳は、森閑とした雰囲気がある

天皇の杜古墳

樫原廃寺跡の北に、三ノ宮神社があります。この神社も樫原廃寺同様に、いつ頃創建されたのか分かっていません。かつては柏原神社と呼ばれていた時期もありました。社の名称である「三ノ宮」は、他に「一ノ宮」「二ノ宮」があって、この名称になったのではなく、祭神に素戔嗚大神・酒解大神・大山咋大神の三神が祀られているので、三ノ宮神社と呼ばれるようになりました。これは大枝山の鬼退治の伝説が基になっています。大枝山に住む酒呑童子に、平安中期の武将・源頼光が、この地の小さな祠に供えてあった御神酒を飲ませたところ、酔いつぶれたので、その隙に退治したといわれています。このことから、「酒の神」と「武勇の神」と「山の神」の三神を祀り、社が造営されたと伝えられています。本殿は昭和49年の第六十回神宮式年遷宮で伊勢神宮から下賜されたもので、拝殿は昭和51年に造営したものです。神域は広くなく、少し歩くだけで全部見ることが出来ます。先に書いたように、本殿と拝殿が出来たのが、つい最近のことですので、奇麗な状態で社殿があります。

天皇の杜古墳には、何箇所も石碑がある

天皇の杜古墳三ノ宮神社から北に歩き、国道9号線に面したところに、天皇の杜古墳があります。この古墳は、古墳時代でも前期(4世紀代)に造営されたと思われ京都市内で最大の古墳ですが、現在では公園のようになっています。古墳の形式としては前方後円墳になり、墳丘の形は前方部が広がらない、いわゆる「柄鏡式」の形態です。この古墳は、大阪の仁徳天皇陵と違い、周囲に柵が巡らされておらず、誰でも中に入ることが出来ます。その為、山頂部分は踏み荒らされている感じがしますが、少し離れてみると、古くから墳丘に生い茂る大樹が「天皇の杜」の名にふさわしい景観を見せ、こんもりとした杜に見えます。古墳の周りは広がっていて、近隣住民の憩いの場となっています。古墳ですが、「天皇の杜」と名称が付いているのは、かつてこの古墳が平安時代の天皇である文徳天皇の御陵であるとされてきたことに由来しています。

物集女へのアクセス

阪急東向日駅から徒歩で約1km