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紫野は京都市北西部にあり、大徳寺や今宮神社がある地域を指します。少し足を伸ばせば、金閣寺や北野天満宮などもあり、京都でも有数の観光スポットです。観光スポットながら、表通りから中に入ると住宅が密集しています。近くにある鷹峯は、江戸時代には文人墨客が集う聚落でした。

    紫野の歴史

今宮神社は紫野地区の氏神様。

今宮神社 楼門

紫野の地名は、京都北西部の地形から来ています。平安時代には、紫野付近の地域は、御所北西部にあって御所と距離的に近く、しかも洛外に当たるので、貴族の遊猟の土地でした。また、葬送の地でもありました(衣笠参照)。また近くには船岡山があり、「栄華物語」に1025年(万寿2年)に、三條天皇々后娘子を「雲林院ノ西院ノ戌(西北)」に於いて火葬したことがみえ、次いで1068年(冶暦4年)、後冷泉天皇を「船岡ノ西北ノ原」に火葬しました(船岡山参照)。この様な土地柄ですが、別な一面があり、貴族の別邸が紫野の地から西にかけて広がっていました。貴族の別邸がある最西部は嵐山付近で、それから嵯峨野一帯から宇多野周辺まで広がっていました。今日の宇多野は、福王子の辺りを指していますが、かつては福王子・鳴滝・花園の辺を指していました。宇多野周辺は高台になっていて水捌けが良く、居住するのに適しています。

紫野高校 石標

紫野高校の周囲には、このような石標が所々にある。

この様に宇多野周辺から鷹峯に続く土地は、緩やかな傾斜地になっており、紫野はその傾斜地の先端部になります。紫野(ムラサキノ)は本来、宇多村(ムラ)の崎(サキ)にある野(ノ)である、と言うのが本義であると思われます。京都の南西部に山崎という地名がありますが、これも京都西山連峰の先端にあるので、ヤマサキと呼ばれるようになったのと同じことです。村崎野が紫野に変化した理由は不明です。この地に紫色した野草(桔梗など)が自生していたかどうか分かりません。もしかすると貴族の遊猟の地であったため、高貴な色である紫の文字が当てられたのかもしれません。

  紫野の散策

大徳寺の築地塀には瓦が嵌め込んであり、幾何学模様な感じがして楽しい。

大徳寺 築地塀紫野には多くの観光名所があり、当サイトでも色々と紹介しています。ここでも簡単に紹介しますが、子細はそれぞれのサイトを参考にして下さい。最初に紹介するのは、紫野地域の氏神様である今宮神社です。今宮神社が創建されたのは、994年(正暦5年)に都に疫病が蔓延したときに、朝廷は木工寮修理職に下命して神輿をつくり、疫神を船岡山に祭って御霊会をおこない、終って難波の海に流したことが歴史書に記されています。本殿は比較的新しく、明治35年に再建されました。楼門も大正15年に創建された新しい建造物です。今宮神社の鳥居は、楼門から南に行くこと約500メートルぐらいにあり、北大路通りから入ってすぐにあります。観光名所ではありませんが、今宮神社の南に紫野高校があります。開校は1952年(昭和27年)で、旧京都淑女学園の校舎並びに諸施設を買収し、3年に旧京都淑女学園高等学校第3学年在籍者を2年に同学園2年在籍者及び京都市立堀川高等学校出雲路分校普通課程2年在籍者を編入して開校しました。京都の公立高校としてはさほど古い歴史がある訳ではありません。紹介したいのは、学校の内部ではなく、学校名を記した周囲にある石標です。石標は一箇所ではなく、そのいずれにも流麗な文字が彫られていて、石標が設置された謂われが知りたくなりました。

写真では分かりにくいが、千本北大路の当たりが上り坂になっている。

千本北大路 お土居跡紫野高校の東にあるのが大徳寺です。大徳寺の開基は大燈国師(宗峰妙超)で、甥のために紫野の地に小堂を建立しました。これが大徳寺の起源とされています。禅に深く傾倒していた花園天皇は上皇になってから大燈に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願寺とする院宣を発して、大燈を開山としました。後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発しましたが、南北朝の動乱の後、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利幕府から疎んじられ、五山十刹から除かれてしまうことになり、それまでは「官」の寺であったのが、それからは「私」の寺になってしまい、公からの庇護を受けられなくなってしまいました。一時は私寺として再建された時期もありましが、それも応仁の乱で焼失しました。再建に大きく寄与したのが、一休宗純です。詳しい内容は、大徳寺を参照して下さい。最後に紹介するのは、船岡山です。桓武天皇は延暦13年に遷都の詔を下し、それまでの山背国から山城国と改字して都を平安京と呼びましたが、平安京の基準点は、船岡山と宇太村にありました。古代のウタ(宜田)の地は双ケ岡・船岡山を双点とした同心円の地であったようで、そしてこの船岡山の北側一帯が、紫野になります。船岡山は高さ120メートル程の高度の低い山ですが、京都市内を一望できる為、兵乱の時代にはまた要害の地ともなり、しばしばこの山の争奪戦が行われ、船岡城とまでいわれました。詳しい内容は、船岡山を参照して下さい。北大路今宮神社前の交差点から西を見ると、千本北大路の当たりが上り坂になっています。これは豊臣秀吉が京都の周囲に設けたお土居の跡です。京都市内は起伏の少ない土地柄ですが、お土居跡が残っているところは狭い範囲で土地の起伏があります。

紫野へのアクセス

京都市市バス「船岡山」下車

周辺の観光・宿泊

観光地: 大徳寺 今宮神社 船岡山 千本釈迦堂

宿泊施設: ホテル然林房 京都ブライトンホテル 京都ガーデンパレス
宿屋西陣荘