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三千院門柱

現在の名称は「梶井三千院門跡」となっている。

三千院は天台宗の寺院で、山号は、魚山。本尊は薬師如来、開基は最澄です。三千院が大原にあって、三千院と呼ばれるようになったのは、意外にも新しく、明治4年(1871年)からです。それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名でした。しかし、寺号には、近江から洛中に、そして大原へ所在地が変転としたにもかかわらず、門跡寺院としての高い格式と、天台の法灯を千二百年の時を超えて、脈々と伝える歴史を秘めています。

 三千院の歴史

寺伝によると、三千院は、延暦年間(782~806年)、伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を創建したときに、東塔南谷の梨の大木の下に一字を構えたのがはじまりとされています。延暦寺の西北にある大原は、古くから朝廷とのゆかりが深く、延暦寺の強い影響を受けた里です。平安時代中期に比叡山の僧たちが、山をおりてこの静かな里に草庵を建て、修行三昧に過ごしました。こうした僧たちが集まりなして住んだのが別所と呼ばれ、最盛期には、49の支院がならんでいました。僧の修行の地としての大原は、洛中の喧騒を逃れたい都の貴顕・文人の隠棲の地でもありました。大原に隠棲した数多い僧侶・貴顕のなかで、この地にその影響を強く残したのが、融通念仏に生き、魚山声明の大祖、融通念仏宗の祖として名を伝える比叡山東塔の常行堂衆の良忍でした。

三千院宸殿

宸殿は宮中御懺法講を今に伝える道場。

大原の声明は、承和7年(840年)に、入唐した慈覚大師円仁(第三世天台座主)が山西省五台山で盛んだった声明を習得して持ち帰り、大原をその本源としたのがはじまり。声明はもともと北インドに生まれ、中国では、魏の陳思王曹植が、山東省の魚山で空から甘く梵天の声に魅せられ、音節をうつしたのが発祥とされています。円仁は、唐になぞらえて大原の地を魚山と名づけ、里の寺々は大原寺と総称して声明を定着させ、さらに智証大師円珍(第五世天台座主)も仁寿3年(853年)、唐から声明を伝えて円仁の天台声明に尽したと伝えられています。良忍は、円仁らが伝えた声明を一本化し、天仁2年(1109年)、魚山の支院の来迎院を再興して、いわゆる融通念仏の専門道場にしました。良忍は、法然が生まれる前年、長承元年(1132年)に、大原の来迎院で亡くなります。その後年が下って安永2年(1773年)良忍は、後桃園天皇から聖応大師をおくられている。貞観2年(860年)には承雲和尚がここに堂宇を建て最澄自作の薬師如来を本尊として、一念三千院、円融院と称し勅願寺となりました。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」と呼ばれるようになりました。また比叡山麓の東坂本梶井に大伽藍を建てて移り、里坊としました。

極楽往生院は内部が狭く窮屈な感じがする。

三千院極楽往生院応徳3年(1086年)には白河天皇中宮の藤原賢子の菩提のために近江坂本の梶井里に移り、「円徳院」と称しました。その地名やそこに加持祈祷に使う加持井があったことから梶井門跡と呼ばれるようになりました。三千院の名は持仏堂の名称でした。梶井とは、梶井門流のことで、天台宗の三門跡の一派で、妙法院、青蓮院とともに声明音律のことを統括し、比叡山の根本中堂、法華堂、常行堂などを管領しました。坂本の梶井門跡は1232年(貞永元年)の火災をきっかけに都移転しました。洛中や東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着きます。広大な苑地が広がり、堂舎が建ち並んだ梶井門跡も、都の町を焦土と化した応仁の乱で、またまた本房を焼失・大原におかれた政所に移って仮御殿としました。江戸時代になると、寛永6年(1629年)に梶井門跡にはいった後陽成天皇の皇子・常修院宮入道慈胤親王がのち天台座主につかれるにあたって、河原町御車小路(現・上京区河原町広小路上ル梶井町)の地が徳川五代将軍綱吉から寄進され、元禄1年(1698年)梶井門跡は、この洛中の地に本房を移します。大原の政所はまた、もとの念仏修行の地になります。やがて明治維新の後、明治政府から施行された廃仏毀釈の令は、大原の地にも吹き荒れました。梶井門跡は、僧籍のあった親王の還俗が行われ、おかげで梶井町の本房は廃され、仏像や寺宝はすべて大原の政所に移転します。明治4年(1871年)には大原の政所は、梶井門跡の本殿とさだめて、三千院と号しました。「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものです。

  三千院の散策

不動堂の屋根は正面から見て何故か左側が伸びている。

三千院不動堂三千院に参詣するには、御殿門を入って左に折れると勅使玄関である受付があり、拝観料を支払うと、靴を脱いで院に上がることになります。初めに拝観できるのが書院の客殿になります。客殿は大正元年(1912年)に補修され、竹内栖鳳をはじめとする京都画壇の画家たちが襖絵を描きました。襖絵の一部は、円融蔵にて展示・保管されています。ここから南に広がる庭園は「聚碧園」と呼ばれています。この庭は苔の生え方、楓や杉の並び方が計算されたように綺麗で、庭全体が見事に調和されています。順路に従って拝観すると、宸殿に向かいます。ここは保元2年(1157年)に、後白河法皇により始められた宮中御懺法講を今に伝える道場です。現在では宮中では行われていないので、御懺法講と呼ばれ、毎年5月30日に三千院の宸殿で執り行われています。本尊は最澄作と伝えられる薬師瑠璃光如来です。東の間には玉座をしつらえてあり、襖には下村観山の虹の絵が描かれていて、『虹の間』とも呼ばれています。玉座の上に敷かれている座布団が少し痛んでいるのが、何となく気になりました。また宸殿中央の長押のに掲げられている扁額は、霊元天皇の真筆で『三千院』と書かれていて、額の四辺中央には菊の御紋があります。宸殿に比べて痛み具合が進んでいるようなので、近くで座っている修行僧に話を伺うと、江戸期に河原町御車小路の時に掲げられた扁額を明治4年に大原の地に移ったときに持ってきたが、しばらくはどこかに保管していたのを取り出して、宸殿に掲げるようになったとのことです。

有清園にはこのようなお地蔵さんが何体か置いてある。

三千院地蔵順路順に進むと、宸殿を降りて有清園の前を通り、往生極楽院に向かいます。極楽往生院は寛和2年(986年)に源信が父母の菩提のために建立したと伝えられています。ここには阿弥陀三尊蔵が祀られていて、国宝に指定されています。平安時代後期の作で、ふくよかな面持ちで金箔の剥落が少なく、応仁の乱を経験した京都にあって制作当時の姿が伺える貴重な仏像といえます。極楽往生院はこの三尊蔵のためにあるような堂で、一般的な他の寺院の金堂などに比べて、仏像が占める割合が大きく、法要等の仏事が行いにくいような感じを受けました。極楽往生院の奥には金色不動堂・観音堂と続いていきます。

三千院はガイドブックにもあるように、庭が非常に綺麗な寺院で、紅葉が好きな方には堪らないほどでしょう。しかし庭園の美しさは最澄の修行に対する精神の表れになっています。そのことは宸殿から有清園に降りるときに、宸殿の柱に最澄の言葉が書いてあります。行かれる方は、それを探してみてください。

三千院へのアクセス

〒601-1242  京都市左京区大原来迎院町540

TEL (075)744-2531

京都バス洛北・大原方面行き「大原」下車徒歩10分

拝観時間  12月~2月 8:30~16:30(閉門16:30)、3月~11月 8:30~17:00(閉門17:30)

拝観料  一般:700円、 中学生:400円、小学生:150円

駐車場  なし  近くに民営駐車場あり(500円前後)

ホームページ  : http://www.sanzenin.or.jp

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