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本堂は元禄14年(1701年)に、桂昌院の勧進で再建された。

清凉寺 本堂

清凉寺は、京都市右京区嵯峨にあり、京都の観光名勝、嵐山はすぐそこにあります。他にも大覚寺や二尊院も近く、観光ルートの一つになっています。山号は五台山です。一般的には嵯峨釈迦堂で親しまれ、「融通念仏の道場」としても知られています。宗派は当初華厳宗でしたが、後に浄土宗知恩院派となります。本尊は釈迦如来、開基は奝然(ちょうねん)、開山は弟子の盛算(じょうさん)です。

    清凉寺の歴史 清凉寺 源融墓

源融の墓碑。『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルと言われている。

清涼寺があるこの地は左大臣の地位にあった源融の山荘、棲霞観があったところですが、源融の没後、寺にあらためて棲霞寺と号しました。天慶8年(945年)、融と血縁の深い式部卿宮重明親王は亡室のために新堂を建立し、金色等身の釈迦如来一体を安置しました。「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという説があります。それより四十二年後の永延元年(987年)、南都東大寺の憎奝然は宋より帰朝し、請来した繹迦如来像と摺本一切経を当寺に安置しました。奝然は秦氏の一族で、中国の五台山に詣ることを一念発起し、永観元年(983年)に中国に渡航、宋の皇帝太宗に歓待されました。帰国にさいして摺本一切経論や釈迦等身立像、十六羅漢像を持ち帰り、一条天皇の拝謁を受けました。その後釈迦等身立像は、上品蓮台寺に安置され、その三年後に棲霞寺に移されました。奝然はこの釈迦等身立像の堂を建立して、寺院にしようとしましたが、永祚元年(989年)十二月から正暦3年(992年)までは東大寺の別当となったので、お堂の建立はできましたが、寺とすることは果せないまま、長和五年(1016年)に没しました。奝然の弟子盛算は先師の遺志を継いで棲霞寺内に一字を営み、釈迦等身立像を安置してこれを五台山清涼寺と号しました。盛算は、奝然が中国に渡航した際、奝然に従った弟子の一人です。

清凉寺 釈迦堂

釈迦堂の屋根は優美なカーブを描いている。

清涼寺の名称は、五台山を清涼山と呼ぶことがあり、これにちなみました。奝然が持ち帰った釈迦等身立像は、のちに数十体の模刻像が造られ清涼寺式釈迦像といわれるようになりました。京都では平等寺や三室戸寺、常楽寺などにあります。清涼寺はその後、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、弘安2年(1279年)に融通念仏を勤修し、以降融通念仏の道場となりました。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って嘉吉3年(1443年)のこととされています。その後、応仁の乱で伽藍は焼失しますが、文明13年(1481年)に再興されました。享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となります。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となります。

  

清凉寺 豊臣秀頼首塚 豊臣秀頼首塚。清涼寺は豊臣と徳川の両方から寄進を受けている 。

江戸時代に入って、寛永4年(1627年)の大火で、本堂など主要な建物は焼失しましたが、釈迦等身立像は運び出されて無事で、境内に仮堂を造営されて、安置されました。五代将軍徳川綱吉の母桂昌院は、元禄13年(1700年)に江戸で釈迦像の出開帳をおこない、本堂の再建の資金を集めます。いわゆる勧進です。これによって多くの喜捨をうけ、4600余両の収入がありました。これを基に翌年に本堂は再建されました。今日の本堂です。その後民衆の信仰をあつめて清涼寺は次第に興隆しましたが、庇を貸した棲霞寺はかえって衰徴し、今は境内の阿弥陀堂に名をとゞめているにすぎません。

  清凉寺の散策
清凉寺 夢殿

清涼寺の夢殿も八角形。

清涼寺は先に書いたように、度々焼失し、創建当時の姿を残している堂宇はありません。正面入り口である仁王門もそうで、現在ある門は安永6年(1776年)に再建されました。左右に金剛力士像が安置され、楼上には十六羅漢像が安置されています。金剛力士像は、丹塗りが施され、再建当時の彩色が残っています。仁王門は江戸中期の再建ですが、金剛力士像は室町後期の作と言われています。楼上には上がることが出来ません。仁王門を入り、左手に向かうと聖徳太子殿(夢殿)があります。清涼寺を訪れて散策するまで、ここに夢殿があることを知りませんでした。清涼寺と聖徳太子がどうかかわりがあるのか、よく分かりませんでした。夢殿の少し奥に源融の墓があります。源融は嵯峨天皇の十二男で、従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣と呼ばれました。死後正一位を追贈されています。融は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされていて、非常に大きな権力がありました。その融が在世中に造営した山荘ですから、棲霞観は壮大なものでした。父の嵯峨天皇の離宮として造営されたのが、現在の大覚寺ですので、それと同じ規模の山荘であったと想像できます。しかしその姿を現在の清涼寺から想像するのは困難です。仁王門右手には、愛宕権現社があります。愛宕権現社がここにあるのは、寺伝によると鷹峯から愛宕山に移す際、はじめここに祀ったとされています。しかし愛宕神社の社伝には、この内容は記載されていません。愛宕権現社の奥には、一切経蔵があります。経蔵は多くの寺にありますが、ここの経蔵の特徴は、参拝者が中に入ることができることです。中には明版一切経が納められた輪蔵があり、これを廻すと一切経を読んだ功徳と同じ効果があると言われています。廻してみると、最初はかなり重く感じましたが、廻し始まるとあとはそんなに力を入れなくとも、廻すことが出来ます。但しこれを廻すのは有料で、一人百円必要です。

清涼寺 石柱

経蔵の奥には、阿弥陀堂があります。阿弥陀堂は先に書いた通り、清涼寺が出来る前にあった棲霞寺が前身となっています。しかしその棲霞寺は焼亡して既に無く、その後再建された阿弥陀堂も何度も焼失し、現在残っている堂は、文久3年(1863年)に建てられたものです。後で触れますが、創建当時に安置された阿弥陀三尊像は、阿弥陀堂に安置されて居らず、霊宝館に陳列されています。造りは単層入母屋造りで、屋根の勾配は、本堂に比べて緩やかになっています。阿弥陀堂左手に、本堂があります。先に書いた通り、本堂は天慶8年(945年)に、宮重明親王が棲霞寺の寺域に建立したのが起こりとされています。本堂も度々焼失し、現在の本堂は元禄14年(1701年)に、桂昌院の勧進で再建されました。間口十四間、奥行き十三間の大きなもので、本尊の釈迦如来が祀られています。普段は開帳されていませんが、特別公開時に拝むことが出来ます。取材時には、たまたま御開帳されていて、拝見することが出来ましたが、宋から持ち帰った釈迦如来のせいか、顔付きが平安時代末期の日本で作成された釈迦如来とは趣が違うように感じられました。本堂には他にも、様々な寺宝があります。清涼寺縁起絵巻を拡大した壁画や、奝然の木像、厄除け地蔵など、清涼寺の歴史を偲ばせる宝物が沢山ありました。

仁王門にある石柱には『三国伝来釈迦如来』とある。

本堂左手に、豊臣秀頼の首塚があります。寺の案内書には、昭和55年に大阪城の三の丸跡地の発掘現場から出土した秀頼の首を、昭和58年に清涼寺に納められたとあります。先に書いたように、清涼寺は徳川綱吉の母桂昌院の尽力によって、再興されました。豊臣を目の敵にしていた家康が、秀頼の首がこの地にあることを知ったら、彼は何と言うでしょうか。阿弥陀堂右手に霊宝館があります。ここには国宝の阿弥陀三尊蔵や、重要文化財の釈迦十大弟子像など多くの貴重な宝物が納められています。本堂にある本尊の釈迦如来像もここにあっても不思議ではありませんが、本尊は本堂にあり、阿弥陀三尊像は阿弥陀堂ではなく、霊宝館にあります。少し不思議に思わない訳ではありません。ここに納められている宝物はどれも素晴らしく、長時間眺めていても飽きることがありません。釈迦如来は、平安期に作成された様式の特徴を備えていて、優美な姿をしています。光背なども丁寧な造りで作成されていて、感心しました。釈迦十大弟子像も、今にも動き出しそうなぐらいリアルな造りで、国宝に指定されても不思議ではありません。

清凉寺へのアクセス

〒616-8447  京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46

TEL(075) 861-0343

京都市バス「嵯峨釈迦堂前」より徒歩1分

駐車料金  : 800円

拝観時間  : 午前9時~午後4時

拝観料金  : 400円(一般,大学),300円(中,高校生),200円(小学生)

ホームページ  : http://jodo.or.jp/footprint/07/index.html

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