白峯神宮

崇徳天皇奉祀神宮

白峯神宮は堀川今出川を少し東に向かった北側にあります。境内末社の地主神は、飛鳥井家の旧鎮守社で、蹴鞠道の神とあがめるまり精大明神を祀られています。その為、サッカーなどの球技の選手が多くこの神社に参詣に来ます。

白峯神宮鳥居

白峯神宮の鳥居は厳かな雰囲気がある

白峯神宮の歴史

光明天皇は保元の乱の末、讃岐に流されて憤死した崇徳上皇を悼み、神霊を京都に移して祀ることを念願としていました。江戸末期という時代背景もあり、宿願叶わず光明天皇は崩御します。崇徳上皇は1156年(保元元年)に起きた保元の乱の末、讃岐に流されます。元は皇位継承を巡って崇徳上皇と後白河天皇が対立し、また摂関家では藤原頼長と忠通とが対立し、崇徳・頼長側は源為義・平忠正の軍を招聘し、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招聘して乱になりました。そして崇徳側が敗れたのが原因です。その結果、平家や源氏の武士が台頭し、武家政権に繋がりました。光明天皇は武士の台頭を招いて、朝廷が没落することになった保元の乱で、無念の死に追いやられた崇徳上皇の心中を思いやったのでしょう。光明天皇の後の皇位に就いた明治天皇は、1868年(明治元年)9月に自らの即位の礼を執り行うに際して四国・坂出の「白峰山陵」から、崇徳上皇の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。

白峯神宮拝殿

拝殿はなかなかの大きさ

次いで1874年(明治6年)、僧道鏡と恵美押勝の争いに座して淡路に流された淳仁天皇を合祀しました。鎮座地は旧飛鳥井家の邸址で、当社造営のとき、同家の寄進によったものです。飛島井氏は鎌倉初期、飛鳥井雅経を祖とする花山院家の一門で、古来蹴鞠・和歌の宗家として、子孫相ついで今日に至っています。境内末社の地主神は、飛鳥井家の旧鎮守社で、蹴鞠道の神とあがめる精大明神を祀っています。また伴緒社は保元の乱に崇徳天皇のもとに馳せ参じた源為義・為朝の霊を祀っています。当初は神祇官員が奉仕しましたが、明治の新制度により官幣中社になり、昭和15年には官幣大社に昇格して「 白峯神宮 」となりました。

白峯神宮の散策

白峯神宮本殿

白峯神宮の本殿前にはスポーツ団体が必勝祈願に訪れた記念品がある

白峯神宮は今出川通りに面しています。創建されたのが1868年(明治元年)です。明治以降に出来た神社の鳥居はコンクリート製が多いのですが、白峯神宮の鳥居は木造で、そのせいか威厳があります。官幣社なので、鳥居や拝殿の屋根などには菊の紋があります。鳥居を潜ると楼門があります。楼門には注連縄が掲げられており、連なる築地塀もよく手入れされています。楼門の先には短い参道があり、その先には拝殿があります。拝殿の前には御所紫宸殿に擬して、左近の橘・右近の桜があります。京都には官幣社が幾つもありますが、拝殿の前に左近の橘・右近の桜があるのを見たのは初めてです。拝殿は中々の大きさで、屋根の軒にはスポンサーの提灯が数多く下がっています。天井を覗きましたが、格子天井になっていて、天井絵などの絵画はありませんでした。

白峯神宮拝殿屋根

白峯神宮は官幣社なので、あちこちに菊の紋がある

拝殿左手(西側)には蹴鞠を行う敷地があり、そこは竹で囲ってあり、入りにくいようにしてありました。拝殿奥には本殿があります。本殿前には様々な球技団体の必勝祈願の寄せ書きなどがあり、他の神社ではあまり見られない光景に、ちょっと驚きました。拝殿もそうですが、本殿の屋根は銅葺きになっています。後で社務所の方に話を聞くと、屋根が銅葺きになったのは1965年(昭和40年)のことで、それ以前は檜皮葺だったそうです。近年檜皮を採取するのが難しく、また採取できたとしても多額の費用が掛かり、多くの神社仏閣では屋根を銅葺きに変更しています。それらの神社仏閣の関係者も、本来は檜皮葺にしたいのでしょうが、かかる経費や管理のしやすさを勘案すると、銅葺きにすることを咎めることは出来ません。また、サッカー関係を始めとした必勝祈願のポスターなども、神社の本殿前にあるのはどうかと思う反面、参拝者を一人でも多く来てもらって、必勝祈願の祈祷料を出してもらうのは、神社の存続に不可欠と考えると、それも致し方ないのかもしれません。

アクセス

〒602-0054 京都市上京区飛鳥井町261番地

TEL (075)441-3810

京都市バス「堀川今出川」下車徒歩2分

駐車場  なし

拝観時間  : 8:00〜17:00

詳しい内容は公式ホームページをご覧下さい

ホームページ  : http://shiraminejingu.or.jp

上記内容は2019年5月に取材したときのものです

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