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相国寺は、臨済宗相国寺派大本山の寺院で、山号を萬年山と称し、正式名称を萬年相国承天禅寺といます。本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石です。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられています。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身です。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭になります。創建当時は広大な寺域を有していて、北は上御霊神社の森、東は寺町、西は大宮通り、南は御所に至り、140万坪を有する壮大なものでしたが、応仁の乱等で多くの寺域を失います。しかし現在でも約4万坪を有しています。周囲にある同志社大学や京都産業大学付属中・高校は、もとは相国寺の境内だったところで、天明の火災で復興できなかったり、明治維新の際に廃仏毀釈の煽りで廃された寺院の址です。

 相国寺の歴史

法堂は天明の火災で焼け残った貴重な建物。

相国寺 法堂

永和4年(1378年)花の御所室町殿を造営し、天下の耳目を衝動させた義満は、又その附近に一大禅苑を建立することを兼ねてより念願していました。まもなく永徳2年(1382年)十月、普明国師・義堂和尚らと相謀り、翌年七月工を起します。義満は工事を急がせて、用地確保のために近くにあった安聖寺や出雲寺や神宮寺、他にも公家の屋敷を強制的に引っ越しさせたりしています。また、法堂は等持院の旧法堂を移築させたと伝えられています。みずから土をはこんで工事をすすめ、10年の歳月を費やして明徳3年(1392年)に竣工しました。これが当寺の起りで、山号を萬年山と号し、寺名を相国承天禅寺としました。本尊には釈迦三尊を安置し、夢窓国師を以って関山としました。このとき夢窓国師は在世していませんでした。当初義満は、春屋妙葩に開山になってもらうように要請していましたが、春屋は固辞し、彼の師である夢窓疎石を開山として、自身は二世の住持になることで義満の了解を得ました。

相国寺 功徳池

功徳池の周囲は金網が巡らされていて近づけない。

また義満は中国の制にならつて禅宗寺院を統制し、僧侶の出所進退を管理するために僧録司の職を置き、普明国師をこの職に任じ、寺内に鹿苑院を建てて住持させます。その後足利義教のとき鹿苑院内に一院を設け、これを蔭涼軒と称しました。軒主は本来将軍の兼ねるところでしたが、留居役の僧がもっぱらその掌にあたり、これがのちに将軍に親近し、政治にも介入するなどして、一時は鹿苑院の僧録司を凌ぐ勢力がありました。『蔭涼軒日録』は蔭掠軒の代々の軒主が筆録した公用日記で、室町中期の五山関係や幕府を中心とする政治・経済・文芸・美術等を知る上の貴重な記録とされています。

三門跡はどことなく寂寥感がある。

相国寺 三門跡

明徳4年(1393年)には、七重塔着工を開始します。完成すれば109メートルになる大塔です(現在最長の塔は東寺の約55メートル)。応永6年(1399年)に完成しますが、4年後に落雷焼失します。その後再建されますが、その塔も文明2年(1470年)に再び落雷焼失した後には、再建されることはありませんでした。それ以外にも相国寺は度々火災に遭っています。相国寺は竣工後、まもなく応永元年(1394年)九月二十四日の失火によって、伽藍のことごとく炎上します。しかし応仁の乱で、堂宇はことごとく兵火にかかりました。それより百数十年のあいだ、まったく荒廃に委せられていましたが、慶長年間に豊臣氏が再興し、徳川氏もまた三門を寄進しました。とくに後水尾天皇は仮殿を下賜して方丈・宝塔・関山堂を再興されたので、ようやく拝観に複するに至ります。しかし天明の大火にふたたび類焼し、法堂や浴室をのこして他はすべて焼失してしまいました。文化4年開山塔・方丈・庫裏が再建されましたが、未だ三門・仏殿は再建に至らず、草茫のうちに礎石のみがのこつています。

  相国寺の散策
     

庫裏は他の禅宗寺院に比べ少し大きいように感じる。

相国寺 庫裏相国寺の正面入り口は、御所の今出川入り口の正面北側になります。今出川通りから5分ほど歩くと、勅使門があります。勅使門は天皇やその使者が訪れた時に、開門されますが、他にも幕府の使者のときにも、開門されます.現在はその門はほとんど開門されませんが、大事な訪問者が訪れた時に、開門されます。門の前は舗装されていて、そこと通りとの間には、門扉があり、自由に勅使門に近付くことは出来ません。一般の人は、右隣の総門から出入りします。総門を入り、左手を見ると功徳池があります。幅約20メートル、奥行き約5メートルぐらいで、池には蓮が群生していて、季節になると白い蓮の花が咲き誇ります。功徳池の中央に掛かっているのが、天界橋です。この橋は石橋で、京都御所とのあいだに境界線のかたちをなしているので、天界橋と呼ばれています。功徳池の周囲には、金網が張り巡らされていて、天界橋を渡ることはもちろん、池の近くに行って散策することも出来ません。天文11年から17年(1542 年~1548年)までの6年間続いた天文の乱は、天界橋から始まったとされていて、天文の乱は別名、石橋の戦いと呼ばれています。現在では、三門・仏殿は焼失してありませんが、現存していれば、御所今出川出入り口・勅使門・天界橋・三門・仏殿・法堂・方丈と一直線上に並んだ景観は、見事であったに違いありません。功徳池の北に三門跡があります。三門は天明8年(1788年)に焼失してから、再建されずに今日に至っています。三門跡は草芒の中に礎石が残っていて、三門がどれ位の大きさであったか、推測出来ます。法堂の大きさから推測して、妙心寺と同じくらいの三門があったように想像出来ます。もし三門に登って、御所を眺めたときに、御所(天皇)を見下ろすことになり、不敬であると言われることは無かったのでしょうか。三門跡の北には、仏殿跡があります。仏殿も三門と同じ時の火災で焼失し、現在に至るまで再建されていません。三門跡同様に、草むらと松林があるだけで、往時の広さを想像するしかありません。

稲荷神社だが鳥居は赤くない。

相国寺 宗旦稲荷仏殿跡の北には、法堂があります。法堂は無畏堂といい、創建以来、度々火災に見舞われて、再建を繰り返しています。現在の建物は、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼から寄進されたもので、天明8年の火災の時には、何とか焼失を免れました。今では仏殿も兼ねていて、本尊を安置するところから、本堂とも呼ばれています。桁行5間、梁間4間、高さが22m、七問六面、重層、入母屋造、本瓦茸の堂々たる唐様建築です。内部は普段公開されておらず、正面中央の入り口からわずかに内部が確認できます。有名な狩野光信筆の「鳴き龍」として知られる蟠龍図も、わずかに伺うことが出来ます。内部はすべて瓦敷とし、中央須弥壇上には本尊釈迦如来、脇士に阿難・迦葉の像を安置し、東壇には衣冠束帯の足利義満像を安置する。左側面にある切妻造、前面唐破風の玄関廓は、他にその例をみない珍らしいものとされている。 本堂の北には方丈があります。方丈も天明8年に焼失しましたが、文化4年(1807年)に再建されます。大きさは、桁行25m、梁間16mの大きなもので、山外塔頭の鹿苑寺(金閣寺)に比べると、かなり大きさが違います。この他にも有名な建物として介山塔がありますが、私が訪れたときは一般公開しておらず、内部の様子を見学することが出来ませんでした。相国寺にあるユニークな建物として、宗旦稲荷があります。この稲荷は相国寺に伝わる白狐の伝承を元に、建てられました。その伝承とは、相国寺に住んでいた白狐は、時折茶人の千宗旦に姿を変えて雲水にまじり座禅を組みました。又時には寺の和尚と碁を打つなでして人々の前に姿を現していました。 宗旦になりすましていたその狐は相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、手前を披露していました。驚いたことにその手前は実に見事なもので、遅れてきた宗旦は、その事に感じ入ったといわれています。その後、狐は豆腐屋の店先から油揚げを盗み、追いかけられて井戸に落ちて死んだとも、猟師に打たれて命を落としたとも伝えられています。化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し喜ばせていたという狐は宗旦狐と呼ばれ死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養しました。それが今でもこの宗旦稲荷として残っていて、以上のような内容が、稲荷の横に掲げられています。

相国寺へのアクセス

〒602-0898  京都市上京区今出川通烏丸東入

TEL (075)231-0301  : FAX (075)441-6066

地下鉄烏丸線今出川駅 : 徒歩3分

駐車場  : なし

その他詳しくはホームページをご覧下さい。

ホームページ  : http://www.shokoku-ji.or.jp/shokokuji/index.html

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