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養源院は東山七条にある浄土真宗遣迎院派の寺院で、山号は南叡山になります。山号の南叡山が示す通り、当初は天台宗でした。開山は成伯です。眼前には三十三間堂があり、すぐ北には国立博物館があります。さほど寺域は広くありませんが、収蔵物が大変有名なのと、創建に関わった人物が有名なので、訪れる観光客は後を絶ちません。

   養源院の歴史

寺域同様、山門はさほど大きくない

養源院

養源院は豊臣秀吉の側室である淀殿が、祖父の浅井久政、父の浅井長政の供養のため、1594年(文禄3年)に創建されました。よく知られているように、浅井家は北近江長浜の小谷城を本拠とし、長政は1564年(永禄8年)に織田信長の妹である市と婚姻を結び、浅井と織田は同盟を結びます。また浅井家は、越前の朝倉と盟友関係にあり、長政は信長と「朝倉への不戦の誓い」を交わしていました。しかし信長はそれを破り、1570年(元亀元年)に越前朝倉に攻め込みます。信長に裏切られた長政は、朝倉との長い同盟関係を重んじ、朝倉に攻め込む織田軍の背後を襲撃。信長は殿を務める秀吉の奮闘により、命かながら逃れます。同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦いますが(姉川の戦い)、敗れてしまいます。1573年(天正元年)に信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻めこみます。長政は朝倉に援軍を要請すると、朝倉は2万の援軍向けますが、織田勢が北近江の城を落とし、浅井氏の救援は不可能と判断した朝倉は越前に逃れます。信長は追撃してそのまま越前国内へ乱入し、朝倉を滅亡させた後、取って返して浅井氏に兵を向けました。ついに小谷城が、織田軍に囲まれ、信長は木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続けました。父の久政と長政は小谷城内にて自害します。長政の妻の市は、柴田勝家と再婚し、娘の茶々(後の淀殿)は母と一緒に勝家の領国である越前に移ります。

本堂に掲げられている幕は徳川ゆかりの三つ葉葵

養源院

その後、勝家と秀吉が本能寺の変で亡くなった信長の後継争いで戦となり、秀吉が勝利すると、市は自害しますが、茶々を含めた長政の娘三人は秀吉に引き取られ、茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け、秀吉の子供を二人設けます。一人目は早世しますが、二人目は長らえて後に秀頼になります。秀頼誕生は1593年(文禄2年)で、養源院が建立されたのはこれの翌年であり、淀殿が秀吉からの寵愛が最も深かった時期になります。「養源院」の寺名は、長政の法号から来ています。その後養源院は、1619年(元和5年)に火災に遭って消失してしまいます。しかし二年後には淀殿の妹で、徳川秀忠正室であるお江(崇源院)が、再建に努めます。本堂は創建時のものを再現したのではなく、伏見城の遺構を移築しました。それ以降は徳川家の菩提所となり、家康を除いた歴代の位牌が祀られています。その為、江戸時代の養源院は、他の寺院とは異なり、一般の人は参拝できず、将軍家や大大名などの高位の人だけに参拝が許されていました。誰もが拝観できるようになったのは、明治に入ってからのことです。

  養源院の散策
養源院

神仏習合の名残である神社は社ではなく、神木

養源院は近くにある三十三間堂や智積院に比べて寺域が狭く、注意しないと所在地を見逃してしまいます。山門に掲げてある寺号も大きくなく、山門左の勅使門にいたっては、寺号が外された状態です。それでも山門を潜ると多数の植栽が目に入り、歴史の長さを感じられます。本堂式台の受付で拝観料を支払い、本堂に上がると、琳派の祖である俵屋宗達の筆による杉絵戸が目に入ります。宗達は後年、法橋に任ぜられるほどの腕前でしたが、養源院に障壁画を描いた頃はさほど有名でなく、「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたと考えられています。伏見桃山期から江戸初期に活躍した絵師集団は狩野派で、やがて長谷川等伯親子が台頭してきました。宗達が世に名前が知られてきた頃は、大阪城や伏見城が完成する頃で、狩野派や長谷川派は、それらの障壁画を描くのに忙しく、小さな寺院の依頼は後回しにされました。進まない障壁画の制作に痺れを切らした成伯は、本阿弥光悦を通じて、宗達に依頼することになります。宗達の画法は非常にユニークで、大胆な筆遣いは、後の絵師に大きな影響を残しました。尾形光琳や酒井抱一は宗達に私淑し、後に琳派と呼ばれる流派となりました。

屋根瓦には厄除けの桃の実が多数ある

養源院

養源院のユニークさは、宗達の杉絵戸だけでなく、その紹介の仕方にもあります。他の寺院なら、宝物館を設けて展示し、美術館のように作品解説を設けて、拝観者に紹介するのでしょうが、ここでは制作された当時のままにしてあります。作品解説は、テープレコーダーで音声を流して聞いてもらい、不足の部分は御師自ら解説しています。寺院は美術館ではないので、仏像や障壁画は、作成されたときに置かれた場所でそのままにするという本義を養源院は実践しています。本堂はさほど広くないので、宗達などの障壁画やいわゆる「血天井」の説明を聞いても、拝観に長い時間は掛かりません。養源院の見所として、他にはお市の方の供養塔や小堀遠州作の庭園がありますが、それらは基本的に非公開です。しかし本堂以外にも見所があり、本堂前の白鷹龍神は鳥居がありますが、神社として社はなく、神木として松があるだけで、神依り代としてシンプルな形式です。また本堂の屋根には厄除けの桃の瓦があったり、入り口には三つ葉葵の幕が掲げてあり、徳川家と関係が深いことが分かります。疑問点を受付で質問しましたが、それにも丁寧に答えてくれました。

養源院へのアクセス

〒605-0941  京都市東山区三十三間堂廻り町

TEL  075 561-3887

京阪七条駅より歩いて10分

拝観料:大・高・中学生 500円 小人 300円

拝観時間  AM9:00~PM4:00

駐車場  なし

公式ホームページ  なし

記事の内容は2016年9月の取材時のものです。

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